F3794【悠久の時を超え、輝きを纏う】
第一章:黎明の輝き
朝靄がまだ南船場の街路を薄絹のように覆う午前六時。高槻譲二は、いつものように大阪サウナDESSEの暖簾をくぐった。都市の喧騒が目覚める前のこの静寂と、サウナの熱気、そして水風呂の冷たさが、彼にとっては何よりの精神安定剤であり、創造力の源泉だった。譲二は中堅広告代理店「アド・フロンティア大阪」のアートディレクター。三十代半ばに差し掛かり、仕事の責任も増す一方で、斬新なアイデアを求められるプレッシャーは常に彼の肩に重くのしかかっていた。締め切りに追われる日々の中で、この早朝の儀式だけが、彼に純粋な思考と向き合う時間を与えてくれる。
高温サウナの最上段、いつもの指定席に腰を下ろし、じわりと汗が噴き出すのを感じながら、譲二は目を閉じた。昨日、大手飲料メーカーの新商品キャンペーンのデザイン案を提示したが、クライアントの反応は芳しくなかった。「悪くはないが、突き抜けるものがない」。その一言が、棘のように胸に刺さっている。自信作だっただけに、落胆は大きかった。だが、このヒノキの香りが充満する熱気に身を委ねていると、凝り固まった思考が少しずつ解けていくのがわかる。額から流れ落ちる汗が、まるで心の澱を洗い流してくれるようだ。じゅうぶんに身体が温まったところで、壁に備え付けられた桶で掛け湯をし、水風呂へ。水温計は15℃を指している。一気に身体を沈めると、皮膚が粟立ち、脳天まで突き抜けるような鋭い冷たさが全身を貫く。はぁ、と息を吐き出すと、白い湯気が水面に揺れた。この瞬間、全ての雑念が消え去り、クリアな感覚だけが残る。温冷浴を三度繰り返し、露天スペースの外気浴用の椅子に深く腰掛けて目を閉じると、身体の芯から活力が静かに湧いてくるのを感じた。心臓がドクドクと力強く脈打ち、頭の中が冴え渡る。DESSEの温冷浴は、彼にとって単なるリフレッシュではなく、創造性をリセットし、新たな視点を得るための神聖な儀式だった。
シャワーを浴びてDESSEを出ると、東の空は暁色に染まり始めていた。御堂筋の街路樹が朝露に濡れ、きらきらと輝いている。足取りも軽く、譲二は心斎橋筋商店街の喧騒を抜け、一本路地に入ったところにある馴染みの喫茶店「あおき」へと向かう。ガラガラと年季の入った引き戸を開けると、焙煎された豆の香ばしい匂いと、トーストの焼ける甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。「おはようさん、譲二君。いつものBセットでええか?」カウンターの奥で、白いコックコートに身を包んだマスター、青木吾郎が、新聞を読んでいた手を休め、柔和な笑顔で迎えてくれた。吾郎は七十歳を過ぎているが、背筋は伸び、その眼差しは温かい。「おはようございます、マスター。お願いします。今日は少し寝坊しましてん」と譲二は苦笑した。
「たまにはそういう日もあるやろ。無理したらあかんで」と吾郎は言いながら、手際よくコーヒーの準備を始めた。程なくして運ばれてきたのは、モーニングBセット。厚切りトーストに挟まれた、黄金色に輝くふわふわのたまごサンド、シャキシャキとしたレタスとトマトの小さなサラダ、そして湯気を立てるアロマたっぷりのブレンドコーヒー。これで320円というのだから、大阪の良心そのものだ。特にこのたまごサンドは絶品で、ほんのり甘く出汁の効いた卵焼きと、からしマヨネーズのピリッとしたアクセント、そしてトーストのサクッとした食感が完璧なハーモニーを奏でる。そして、マスターが一杯一杯丁寧にハンドドリップで淹れるコーヒー。一口含むと、深いコクと芳醇な香りが口いっぱいに広がり、朝のけだるさを優しく洗い流してくれる。譲二はゆっくりと朝食を味わいながら、今日の仕事の段取りを頭の中で組み立てていった。クライアントの言葉、「突き抜けるもの」。そのヒントはどこにあるのだろうか。
その週末、譲二は祖母・高槻文枝の七回忌の準備のため、電車を乗り継いで大阪郊外の実家に立ち寄った。両親と妹の家族が集まり、法要の打ち合わせや仏壇の掃除などを手分けして行う。父親の正一とは、昔からどこかそりが合わなかった。無口で厳格な父は、譲二が選んだ広告業界の仕事を、どこか「浮ついたもの」と見ている節があり、会話も弾まない。母親の和子は、そんな父と息子の間を取り持つように、いつも明るく振る舞っていた。
物置の整理を手伝っていると、棚の奥から埃を被った桐の小箱が目に留まった。手に取ると、ずしりとした重みがある。そっと蓋を開けると、そこには息をのむほど美しい銀色の輝きが収められていた。それは、K18ホワイトゴールドの喜平ネックレス。細かく編み込まれたチェーンが複雑な光を放ち、まるで生きているかのようにしなやかに煌めいていた。添えられていた古い黄ばんだ保証書には、震えるような筆跡で「F3794 最高級K18WG トリプル6面カット 喜平ネックレス 50cm 20.49g 株式会社鳳凰堂」と記されている。そして、隅には小さく「譲へ」と書かれていた。
「これ、じいちゃんの…?」譲二は呟いた。祖父、高槻譲吉は、譲二がまだ幼い頃に亡くなったため、記憶は曖昧だ。写真で見る祖父は、いつも穏やかに微笑んでいた。
「ああ、そうや。おじいちゃんが大事にしとったもんでな。お前が生まれる前に買うて、いつかお前にって言うとったんや」と和子が懐かしそうに目を細めた。
「鳳凰堂…聞いたことないな」
「昔、心斎橋にあった老舗の宝飾店らしいわ。もう随分前になくなってもうたけど」
その時、背後から低い声がした。「そんなもん、まだあったんか」
振り返ると、父親の正一が苦虫を噛み潰したような顔でネックレスを見下ろしていた。「親父の道楽の一つや。ろくに使いもせんと、仕舞い込んどっただけやろ」その声には、どこか棘があった。
「あなた…」と和子が咎めるように言ったが、正一はフンと鼻を鳴らして部屋を出て行ってしまった。
譲二は、ネックレスを手に取った。ひんやりとした金属の感触が心地よい。トリプル6面カットという精緻な細工は、光を受けるたびに異なる表情を見せ、まるで悠久の時を刻んできたかのような深みを感じさせた。「F3794」という型番のような記号と、「譲へ」という祖父の想い。このネックレスには、一体どんな物語が秘められているのだろうか。そして、なぜ父はこれほどまでに祖父の遺品に対して冷ややかなのだろうか。譲二の胸に、小さな疑問と好奇心が芽生え始めていた。それは、クライアントに求められた「突き抜けるもの」を探す日常とは全く違う、もっと個人的で、心の奥底を揺さぶるような予感だった。この輝きは、ただの金属の光沢ではない。何か、もっと深い意味を持っているに違いない。譲二はネックレスをそっと首にかけた。ひんやりとした重みが、彼の心臓の鼓動と共鳴するようだった。
第二章:過去からの呼び声
祖母の七回忌が無事に終わり、日常が戻っても、譲二の心はあの喜平ネックレス「F3794」に囚われたままだった。仕事の合間を縫っては、インターネットで「鳳凰堂」「K18WG トリプル6面カット」といったキーワードで検索を繰り返したが、既に廃業した店の情報は乏しく、ネックレスそのものの来歴に繋がるものは見つからなかった。父親の正一にそれとなく祖父のことを尋ねても、「昔のことや。わしにもよう分からん」と素っ気ない返事が返ってくるばかりで、会話はすぐに途切れてしまう。母親の和子も、祖父がネックレスを購入した経緯については詳しく知らないようだった。「おじいちゃん、口数の少ない人やったからねぇ。でも、譲二が生まれた時は本当に嬉しそうにしてて、このネックレスを見ながら『この子が大きくなったら、きっと似合うやろうな』って、何度も言うとったわ」
諦めきれない譲二は、週末、実家の物置を再び探索することにした。祖父・譲吉の遺品が仕舞われている段ボール箱を一つ一つ開けていく。古いアルバム、愛用していた万年筆、数冊の経済書。その中に、一冊の古びた手帳を見つけた。表紙には達筆な字で「昭和四十一年」と記されている。譲二が生まれるよりずっと前のものだ。緊張しながらページをめくると、そこには几帳面な文字で日々の出来事や所感が綴られていた。その多くは仕事に関する記述だったが、時折、個人的な心情が吐露されている箇所もあった。そして、あるページに譲二は釘付けになった。
「昭和四拾壱年 弐月拾五日。心斎橋、鳳凰堂にて、白金の鎖を求む。型番F3794。これぞ生涯の仕事の証、そして未来への祈り。いつか、この輝きを受け継ぐべき者が現れる日のために。…ああ、しかし、美佐子の面影が胸をよぎる。果たしてこれで良かったのか。」
美佐子。その名前に、譲二は心臓が掴まれるような感覚を覚えた。祖母の名は文枝だ。美佐子とは誰なのか。祖父の日記には、その後も何度か「美佐子」という名前が登場するが、彼女との関係性や具体的なエピソードは記されていなかった。ただ、その名前が出てくる箇所には、喜びと後悔、そして深い哀惜のような感情が滲んでいた。
「これは…」譲二はゴクリと唾を飲んだ。祖父の秘められた過去。そして、ネックレスF3794は、単に孫への贈り物というだけでなく、もっと複雑な想いが込められているのかもしれない。父親の正一が祖父の話を避けるのは、この「美佐子」という存在が関係しているのだろうか。
週明け、譲二はDESSEのサウナでこの発見について反芻していた。熱気の中で目を閉じると、祖父の日記の文字が瞼の裏に浮かんでくる。「生涯の仕事の証、そして未来への祈り」。祖父は一体どんな仕事をしていたのだろう。広告業界に身を置く譲二にとって、その言葉は妙に心に響いた。温冷浴を繰り返すうちに、頭の中が整理されていく。祖父の過去を探ることは、もしかしたら自分自身の仕事や生き方を見つめ直すきっかけになるかもしれない。そんな予感がした。
喫茶店「あおき」でモーニングを取りながら、譲二はマスターの吾郎にそれとなく鳳凰堂のことを尋ねてみた。「マスター、昔、心斎橋にあった鳳凰堂って宝飾店、ご存知ですか?」
吾郎は少し考えてから、「ああ、鳳凰堂さんか。確か、ワシが若い頃にはもう老舗やったな。立派な店構えで、ええもん扱ってたで。せやけど、バブルが弾けた後くらいやったかな、いつの間にか店じまいしてもうたな。そこの品物でも見つけたんか?」
「ええ、まあ。祖父の遺品なんですけどね」
「そうか。鳳凰堂の品やったら、確かなもんやろな。大事にしいや」吾郎の言葉は、譲二の背中をそっと押してくれた気がした。
その頃、譲二の会社では、大阪万博記念公園の活性化プロジェクトのコンペが進行していた。テーマは「未来へ繋ぐ光」。譲二のチームも参加しており、彼はメインビジュアルの制作を担当していたが、なかなか「突き抜ける」アイデアが浮かばずに苦しんでいた。そんな時、ふと胸にかけたネックレスF3794の冷たさを感じた。その輝き、精緻なカット、そして祖父の日記にあった「未来への祈り」という言葉。それらが結びつき、譲二の頭の中に一つのイメージが閃いた。悠久の時を超えて輝き続ける光の螺旋。過去から未来へと繋がる希望の象徴。それは、万博公園のシンボルである太陽の塔をモチーフに、無数の光の粒子が螺旋を描きながら天空へと昇っていくようなデザインだった。
「これだ…!」譲二は興奮を抑えきれず、すぐにスケッチブックにアイデアを叩きつけた。ネックレスF3794が、思わぬ形で彼の創造力を刺激したのだ。デザインはまだ荒削りだが、確かな手応えを感じていた。祖父の過去を探る旅は、いつしか譲二自身の未来をも照らし始めているのかもしれなかった。しかし、その先に待ち受ける真実が、彼の人生を大きく揺るがすことになるとは、まだ知る由もなかった。
第三章:交錯する想い
祖父の日記にあった「美佐子」という名前。その手がかりを求めて、譲二は古い電話帳や過去の新聞記事のデータベースを調べてみたが、確たる情報は得られなかった。昭和四十年代の大阪。あまりにも漠然としている。行き詰まりを感じていたある日、譲二は再び祖父の手帳を丹念に読み返していた。すると、ある記述に目が留まった。「美佐子と天神橋筋の『純喫茶エデン』にて。彼女の淹れる珈琲は、いつも心が安らぐ。」
純喫茶エデン。今も存在するのだろうか。譲二はすぐにインターネットで検索した。すると、驚いたことに、天神橋筋商店街の一角に、同じ名前の喫茶店が今も営業していることがわかった。しかも、創業は昭和三十年代だという。胸の高鳴りを抑えながら、譲二はその週末、天神橋筋商店街へと向かった。日本一長いと言われるアーケード街は、活気に満ち溢れていた。古い店と新しい店が混在し、独特の雰囲気を醸し出している。目的の「純喫茶エデン」は、商店街の喧騒から少し離れた路地裏にひっそりと佇んでいた。蔦の絡まるレンガ造りの外観、ステンドグラスの嵌められた重厚な扉。まるで時が止まったかのような空間だった。
意を決して扉を開けると、カラン、とドアベルが鳴った。店内は薄暗く、クラシック音楽が静かに流れている。使い込まれた革張りのソファ、磨き上げられたマホガニーのカウンター。壁にはセピア色の写真が何枚も飾られていた。カウンターの中にいたのは、上品な雰囲気の初老の女性だった。
「いらっしゃいませ」穏やかな声だった。
譲二はカウンター席に座り、コーヒーを注文した。そして、おそるおそる尋ねた。「あの、こちらのお店は、昔からこちらで?」
「ええ、父の代からでございます。もう六十年近くになりますでしょうか」
「実は、祖父の日記に、こちらの店の名前がありまして。昭和四十年代頃に、美佐子さんという方とよく来ていたようなんです。何かご存知ないかと…」
女性は少し驚いたように目を見開いたが、やがて静かに頷いた。「美佐子…それは、私の母の名前でございます」
譲二は息をのんだ。こんな偶然があるのだろうか。
「母は、もう十年前に亡くなりましたが…もしよろしければ、お話をお聞かせ願えませんか?」
女性は、奥から一枚の古い写真を持ってきた。そこには、若き日の祖父・譲吉と、優しそうな笑顔を浮かべた美しい女性が、この「純喫茶エデン」の店内で並んで写っていた。その女性こそ、美佐子さんだった。
「母は、若い頃、ここで働いておりました。そして、高槻譲吉様…あなた様のお祖父様とは、特別なご縁があったと聞いております」
女性の名は、北川沙耶と言った。沙耶さんは、母・美佐子さんから断片的に聞いていた話を、ゆっくりと語り始めた。譲吉と美佐子は、この喫茶店で出会い、互いに惹かれ合った。譲吉は当時、小さな町工場を経営しており、事業拡大のために奔走していた。美佐子はそんな譲吉を陰ながら支え、二人は将来を誓い合う仲だったという。しかし、ある事情から二人は結ばれることなく、別々の道を歩むことになった。その「事情」については、美佐子さんは多くを語らなかったらしい。
「母は、高槻様と別れた後も、ずっとその方のことを心のどこかで想い続けていたように思います。そして、高槻様から贈られたという、ある品物を大切にしておりました」
沙耶さんが奥から取り出してきたのは、小さなビロードの箱だった。その中には、繊細な細工が施されたプラチナのブローチが収められていた。そのデザインは、どこか譲二が持つ喜平ネックレスF3794の輝きと通じるものがあるように感じられた。
「もしかして、お祖父様が持っていらっしゃるネックレス…それも、母との思い出に関係があるのかもしれませんね」
譲二は、祖父の日記にあった「美佐子の面影が胸をよぎる。果たしてこれで良かったのか」という言葉を思い出していた。ネックレスF3794は、孫への贈り物であると同時に、果たせなかった美佐子さんへの想い、あるいは彼女との決別を乗り越えるための「生涯の仕事の証」だったのだろうか。
沙耶さんと話すうちに、譲二は祖父の人間的な側面に触れたような気がした。そして、沙耶さん自身も、どこか謎めいた雰囲気と、芯の強さを感じさせる女性だった。二人の祖父たちが紡いだ見えない糸が、今、自分たちを繋いでいる。そんな不思議な感覚に包まれた。
「もしよろしければ、もう少し詳しくお祖父様たちのことを調べてみませんか?」譲二は沙耶さんに提案した。沙耶さんも頷き、二人は互いの祖父たちが残した手紙や写真などを持ち寄り、協力して過去の謎を解き明かしていくことになった。
一方、譲二の父親、正一の態度は依然として硬かった。譲二が「美佐子」という名前を口にすると、正一は露骨に顔を曇らせ、「お前には関係のないことだ」と突き放した。その反応は、譲二の疑念を一層深めるだけだった。父は一体何を隠しているのか。祖父と美佐子さんの間に何があったのか。そして、それは高槻家にどのような影響を与えたのか。
仕事では、万博記念公園のコンペの締め切りが迫っていた。譲二はネックレスF3794から得たインスピレーションを元に、デザインを練り上げていた。それは、単なるビジュアルの美しさだけでなく、過去から未来へと繋がる人々の想いや希望を表現しようとする試みだった。沙耶さんとの出会い、祖父の秘められた過去。それらが複雑に絡み合いながら、譲二の創造力を刺激していた。DESSEのサウナで思考を巡らせ、あおきのたまごサンドを頬張りながらスケッチを描く。日常の中に非日常が溶け込み、譲二の世界は少しずつ広がりを見せていた。そして、その先には、思いもよらない真実が待っているのだった。
第四章:真実の鎖
譲二と沙耶は、週末になると「純喫茶エデン」や、時には譲二の実家で、互いの祖父たちが残した資料を突き合わせていた。譲吉の日記、美佐子の古い手紙、アルバムに収められたセピア色の写真。それらはパズルのピースのように、少しずつ過去の情景を浮かび上がらせていった。
明らかになってきたのは、譲吉と美佐子の深い愛情と、それを引き裂いた時代の波、そしてある決定的な誤解だった。譲吉が経営していた町工場は、高度経済成長の波に乗り、順調に事業を拡大していた。彼は美佐子との結婚を考え、その証として鳳凰堂で特別な品を注文しようとしていた。それが、もしかしたらF3794のネックレス、あるいはそれに類するものだったのかもしれない。しかし、そんな矢先、譲吉の工場は取引先の突然の倒産という煽りを受け、経営危機に陥る。多額の負債を抱え、譲吉は絶望の淵に立たされた。
その頃、美佐子の元には、別の男性からの縁談が持ち上がっていた。相手は安定した職業の堅実な人物で、美佐子の両親もその縁談を強く勧めていた。譲吉は、自分の苦境に美佐子を巻き込むわけにはいかないと考え、苦渋の決断をする。彼は美佐子に何も告げず、一方的に別れを切り出したのだ。「君にはもっと幸せになる権利がある。俺では君を幸せにできない」と。美佐子は深く傷つき、譲吉の真意を測りかねたまま、やがてその縁談を受け入れた。それが、沙耶さんの父親だった。
譲吉の日記には、その頃の苦悩が痛々しいほど綴られていた。「美佐子を失った。だが、これで良かったのだ。彼女の未来を奪う権利など、私にはない」。そして、その数ヶ月後、奇跡的に新たな融資先が見つかり、譲吉の工場は危機を脱する。彼は事業再建に全力を注ぎ、数年後には再び軌道に乗せることに成功した。しかし、その時には美佐子は既に他の男性と結婚し、新たな人生を歩み始めていた。譲吉は、鳳凰堂に注文していた品を、結局美佐子に渡すことができなかった。それがF3794のネックレスだとすれば、その「譲へ」という言葉は、孫の譲二であると同時に、果たせなかった想いを託す「譲る」という意味も込められていたのかもしれない。
この事実を知った時、譲二は胸が締め付けられるような思いだった。沙耶さんもまた、静かに涙を流していた。二人の祖父たちは、互いを想いながらも、すれ違い、誤解によって引き裂かれてしまったのだ。
「おじいちゃん…なんて不器用な人なんだ」譲二は呟いた。
沙耶さんは、「母も、高槻さんのことをずっと誤解していたのかもしれません。冷たく突き放されたと思っていたけれど、本当は…」と言葉を詰まらせた。
この話を聞いた譲二の母、和子は、「そうやったんか…お義父さん、そんな辛い過去があったんやねぇ」と目を潤ませた。しかし、父の正一は、依然として口を閉ざしたままだった。だが、その表情には、以前のような険しさはなく、どこか深い悲しみが漂っているように見えた。
ある晩、譲二がDESSEのサウナで一人、この出来事を整理していると、隣に座った常連の老人が話しかけてきた。「兄ちゃん、なんか考え事かいな。サウナは無心になるのが一番やで」その何気ない一言が、譲二の心にストンと落ちた。そうだ、過去は変えられない。だが、そこから何を学び、未来にどう繋げるかだ。
週末、譲二は沙耶さんと共に、父親の正一に改めて向き合った。「親父、俺たち、じいちゃんと美佐子さんのこと、調べたんだ。じいちゃんは、決して美佐子さんを裏切ったわけじゃなかった」
正一はしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。「…わしも、薄々は気づいとったのかもしれん。親父が時折見せる、遠い目。母さん(文枝さん)には悪いと思いながらも、心のどこかに別の誰かがいるような…そんな気がしとった」
そして、正一は衝撃的な事実を語り始めた。実は、正一が若い頃、事業に失敗し多額の借金を抱えたことがあった。その時、譲吉は黙って自分の土地を売り、正一の借金を肩代わりしてくれたのだという。「親父は何も言わんかった。ただ、『お前がこれからどう生きるかや』とだけ。わしは、親父が道楽で買ったと思っていたあのネックレスF3794も、もしかしたらあの時、わしのために売ろうと考えとったんちゃうかと思ったりもした。結局、それは手元に残ったけどな…」
正一は、祖父の不器用な愛情を理解していながらも、素直に受け止めることができず、どこか反発していた自分を恥じるように語った。そして、美佐子さんの存在が、父と母の関係に影を落としていたのではないかという長年のわだかまりも、少しずつ解けていくのを感じていた。
ネックレスF3794。それは、譲吉の果たせなかった恋の記憶であり、事業再生の誓いであり、そして息子への無言の愛の証でもあったのかもしれない。幾重にも絡み合った想いが、その輝きの中に凝縮されていた。
譲二の万博記念公園プロジェクトのコンペは最終選考に残っていた。彼はプレゼンテーションで、ネックレスF3794のエピソードを交えながら、自身のデザインに込めた「過去から未来へ繋がる光」というテーマを熱く語った。それは、単なる広告デザインの提案ではなく、人の想いや歴史を尊重し、未来への希望を紡いでいこうというメッセージだった。審査員たちの多くが、その熱意と物語性に心を動かされたようだった。結果はまだ出ていないが、譲二は確かな手応えを感じていた。祖父のネックレスが、彼に真実の鎖を解き明かす勇気と、未来を切り開く力を与えてくれたのだ。
第五章:未来への輝き
万博記念公園活性化プロジェクトのコンペの結果は、見事、譲二のチームの勝利だった。彼のデザイン「悠久の光彩~スパイラル・オブ・ホープ~」は、その独創性とテーマ性、そしてプレゼンテーションで語られたストーリーが高く評価された。「高槻君、君のデザインには魂がこもっていたよ」と上司に肩を叩かれ、譲二は込み上げるものを感じた。それは、クライアントに「突き抜けるものがない」と言われ続けた日々の苦悩が報われた瞬間であり、祖父・譲吉の想いを少しでも形にできたという達成感でもあった。ネックレスF3794は、彼の胸で静かに、しかし確かな重みをもって輝いていた。
この一件をきっかけに、高槻家の雰囲気は少しずつ変わっていった。父親の正一は、以前よりも口数が多くなり、譲二の仕事にも理解を示すようになった。祖父・譲吉と美佐子さんの過去を知り、そして譲吉が自分に向けていた不器用な愛情を再認識したことで、長年の心のわだかまりが氷解したようだった。週末には、正一自ら「あおきのモーニングでも行くか」と譲二を誘うことさえあった。カウンターで並んでたまごサンドを頬張り、マスターの吾郎が淹れるコーヒーを飲む。そんな何気ない時間が、父子の間に新たな絆を育んでいた。
譲二と沙耶の関係も、ゆっくりとだが確実に深まっていた。二人は互いの祖父たちの物語を共有したことで、特別な連帯感で結ばれていた。「純喫茶エデン」は、二人にとって大切な場所となり、仕事の合間や休日に落ち合っては、他愛のない話から将来の夢まで語り合うようになっていた。沙耶の淹れるコーヒーは、祖父が日記に記した通り、本当に心が安らぐ味がした。
ある日、沙耶は譲二に言った。「高槻さんのお祖父様が残してくれたネックレス、そして私の母が大切にしていたブローチ。それらは、二人が結ばれなかった証かもしれないけれど、同時に、二人が確かに深く愛し合った証でもあると思うんです。そして、その想いが巡り巡って、私たちを出会わせてくれたのかもしれませんね」
譲二は沙耶の手をそっと握った。言葉にしなくても、互いの気持ちは通じ合っているように感じられた。悠久の時を超え、輝きを纏うネックレスは、世代を超えて新たな愛の物語を紡ぎ始めていた。
ネックレスF3794は、譲二にとって単なる装飾品ではなく、お守りのような存在になっていた。大切なプレゼンの前には、そっとそれに触れて勇気をもらう。DESSEのサウナで新しいアイデアを練る時も、その冷たさが思考をクリアにしてくれる。そして、喫茶店あおきでモーニングセットを味わいながら、これからの人生について思いを馳せる時も、ネックレスは静かに彼の未来を照らしているようだった。
数ヶ月後、万博記念公園では、譲二がデザインした「悠久の光彩」のインスタレーションが完成し、多くの人々がその幻想的な光のアートを楽しんでいた。太陽の塔を背景に、無数の光の粒子が螺旋を描きながら夜空に昇っていく様は、まさに過去から未来へと繋がる希望の象徴だった。そのオープニングセレモニーには、譲二の両親、そして沙耶も駆けつけてくれた。ライトアップされた作品を見上げながら、正一は「親父も、これを見たら喜んだやろうな」と呟いた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
譲二は、ネックレスF3794をそっと握りしめた。祖父・譲吉の想い、美佐子さんの記憶、父の葛藤、そして沙耶との出会い。全てがこの一つの輝きに繋がっている。それは、決して平坦ではなかったけれど、愛と希望に満ちた物語の鎖だった。
翌朝、譲二はいつものように南船場の大阪サウナDESSEにいた。熱いサウナと冷たい水風呂が、心身をリフレッシュしてくれる。外気浴をしながら空を見上げると、澄み切った青空が広がっていた。全てが新しい始まりのように感じられた。
サウナを出て、足は自然と「あおき」へ向かう。「おはようさん、譲二君。ええ顔しとるな」マスターの吾郎が笑顔で迎えてくれた。いつものモーニングBセット。アロマ豊かなコーヒーの香りが、幸福感と共に胸いっぱいに広がる。たまごサンドを一口頬張ると、優しい甘さが口の中に溶けていった。
譲二は、胸元で確かな存在感を放つネックレスにそっと触れた。
「悠久の時を超え、輝きを纏う」
その言葉は、もはや単なるキャッチコピーではなかった。それは、彼の人生そのものを照らし出す、希望の光だった。過去を受け止め、現在を生き、そして輝かしい未来へと歩み出す。譲二の新たな物語は、今まさに始まったばかりだった。南船場の朝の光の中で、彼の笑顔は、ネックレスの輝きにも負けないほど晴れやかだった。