
「商品説明」等々が長文で大変申し訳ございませんが、取引トラブルを避ける為、ご面倒かとは思いますが、最後までお読みください。
[取消・キャンセル]はお受け出来ません慎重にお考えの上で責任あるご入札を宜しくお願い致します。
(商品説明の下部に「追加画像」を添付してありますので ご確認のうえ応札願います。)
取扱い商品の都合上 鑑定書(認定書・極め書き)の無い物についての「商品説明等々」はあくまでも当方の「主観」で説明していますので「参考説明」程度にお考えください。
また 当然の事として「使用感・経念感」はあます。そういった事や「経年・使用」の時代経過の状態を気になさる方
また神経質な方は ご入札を控えて頂いたほうが 宜しいかと存じますので入札をご遠慮 お願いします。
(尚 説明解釈等々の過ち 記述の誤り等々はご容赦願います。「解釈の過ち・記述の誤り」等々があった際には「画像」での確認の方を優先してお考え下さい。)
サイズ約(cm)「菓子器」 径 16×16 高さ 7・9 共箱サイズ 19・7×19・7 高さ 12・2
(慎重に測っていますが あくまでも参考寸法とお考え下さい)
この度の「梅花散らし図」の「で箱蓋の裏に「大徳寺僧堂師家」の「松岡寛慶」の「墨書」があります。
柔らかな陶瓷肌に「梅花」を散らした洒落た出来栄えの作品であり「色合い・色質」も見事で最上々の「菓子器」です。
「杉共箱」の「蓋」の表に「帝室技芸員」の「朱印」有り「菓子器・瓷碗」と「蘇山・印譜」の墨書及び朱印があります。
「菓子器」の底部に「蘇山」と「小判型の印譜」があります。(「杉製共箱」が付いています。)
初代「蘇山」は金沢出身で姓は「諏訪」で現代の「人間国宝・文化勲章受章者」と同等の明治期の「帝室技芸員」となり「青磁」を得意とし「蘇山青磁」と呼ばれ且つ「染付」にも優れた第一人者でもある。
大正十年京都で没す、享年七十一歳 (尚 後代は先代同様に共に「名工」で二代・三代・四代と大いに栄えています。)
(「帝室技芸員」は現代の文部科学大臣が指定した「重要無形文化財の保持者」として各個認定された人物を指す通称である「人間国宝」の任命者と同等の「認定制度」と思います。)
「美術家名鑑」の「初代・諏訪蘇山」部分と「松岡寛慶」の「参考コピー」をお付けします。
帝室技芸員制度は、宮内省(現在の宮内庁)が技術と人柄に優れた当代の美術工芸家を選出し「帝室技芸員」に任命する作家の顕彰制度で、その拝命は作家にとって大変な名誉で任命された美術家には年金が給与され,
制作を下命されることもあり、技術に関する諮問を受けることなどが定められ「人格・技量 」共に優れた者が任命され、美術家最高の栄誉と権威を示した。
1944年までに絵画(45名) 彫刻(7名) 工芸(24名) 建築(2名) 写真(1名) 合計79名が任命されたが第二次世界大戦後この制度は廃止されました。
「松岡寛慶(マツオカ カンケイ)」は1876-1934は、中島郡新神戸村(現一宮市今伊勢町)の豪農松岡忠右衛門の三男。号は喝山窟、別号に大玄斎。兄は第一毛織の興隆者。
11歳の時に知多郡岡田村慈雲寺の莞応について出家。明治29年、天龍僧堂の蛾山に参じ、同33年蛾山の示寂に遭い、さらに相国の東獄、伊予の大法寺に入り、明治39年ついにその印記を得る。
大正2年一宮妙興寺に転住、寺内に妙興禅林を開設する。大正8年より2年間、臨済宗大学長に任ぜられ昭和7年、博多崇福寺に住し、さらに同8年、大徳僧堂師家に就任。同9年、大徳寺派管長にも選ばれるも病の為に示寂。世寿59.
明治時代の「初代・諏訪蘇山」の在銘で「帝室技芸員」の朱印のある「共箱」入りで「大徳寺僧堂師家」の「松岡寛慶」の「墨書」ある「菓子器」ですから 当然の事として若干「使用感・経念感」はありますが
当方見る限り 問題になる様な傷みは一切有りませんが 百年以上の時代を経た物である事をご理解のうえ応札願います。
(画像でご確認し ご納得のうえ 応札願います。)
発送は ゆうパック60サイズ 着払い(元払い)にて発送致します。宜しくお願いします 。
入札及び落札後のキャンセル・返品は基本的にお受け出来ません。画像を多数入れてありますので、よくご確認のうえ 疑問点は質問して 責任を持って応札をお願い致します。
詳しくは画像をよく確認のうえ 以上の記載内容・画像をご確認し御納得いただき お取引していただける方のご入札お待ちしております。
(2025年 9月 25日 18時 16分 追加)
菓子器 帝室技芸員.初代諏訪蘇山.底部に蘇山の陶印あり.共箱.蘇山瓷碗.京焼.松岡寛慶.裏墨書あり.出来栄え保存状態最上々 この度の「梅花散らし図」の「で箱蓋の裏に「大徳寺僧堂師家」の「松岡寛慶」の「墨書」があります。
柔らかな陶瓷肌に「梅花」を散らした洒落た出来栄えの作品であり「色合い・色質」も見事で最上々の「菓子器」です。
「杉共箱」の「蓋」の表に「帝室技芸員」の「朱印」有り「菓子器・瓷碗」と「蘇山・印譜」の墨書及び朱印があります。
「菓子器」の底部に「蘇山」と「小判型の印譜」があります。(「杉製共箱」が付いています。)
初代「蘇山」は金沢出身で姓は「諏訪」で現代の「人間国宝・文化勲章受章者」と同等の明治期の「帝室技芸員」となり「青磁」を得意とし「蘇山青磁」と呼ばれ且つ「染付」にも優れた第一人者でもある。
大正十年京都で没す、享年七十一歳 (尚 後代は先代同様に共に「名工」で二代・三代・四代と大いに栄えています。)
(「帝室技芸員」は現代の文部科学大臣が指定した「重要無形文化財の保持者」として各個認定された人物を指す通称である「人間国宝」の任命者と同等の「認定制度」と思います。)
「美術家名鑑」の「初代・諏訪蘇山」部分と「松岡寛慶」の「参考コピー」をお付けします。
帝室技芸員制度は、宮内省(現在の宮内庁)が技術と人柄に優れた当代の美術工芸家を選出し「帝室技芸員」に任命する作家の顕彰制度で、その拝命は作家にとって大変な名誉で任命された美術家には年金が給与され,
制作を下命されることもあり、技術に関する諮問を受けることなどが定められ「人格・技量 」共に優れた者が任命され、美術家最高の栄誉と権威を示した。
1944年までに絵画(45名) 彫刻(7名) 工芸(24名) 建築(2名) 写真(1名) 合計79名が任命されたが第二次世界大戦後この制度は廃止されました。
「松岡寛慶(マツオカ カンケイ)」は1876-1934は、中島郡新神戸村(現一宮市今伊勢町)の豪農松岡忠右衛門の三男。号は喝山窟、別号に大玄斎。兄は第一毛織の興隆者。
11歳の時に知多郡岡田村慈雲寺の莞応について出家。明治29年、天龍僧堂の蛾山に参じ、同33年蛾山の示寂に遭い、さらに相国の東獄、伊予の大法寺に入り、明治39年ついにその印記を得る。
大正2年一宮妙興寺に転住、寺内に妙興禅林を開設する。大正8年より2年間、臨済宗大学長に任ぜられ昭和7年、博多崇福寺に住し、さらに同8年、大徳僧堂師家に就任。同9年、大徳寺派管長にも選ばれるも病の為に示寂。世寿59.