1913年 暁星中学校在学中、夕刻から洋画家
1914年 北海道北斗市のトラピスト修道院夏を過ごし同宿の詩人・三木露風との交友が始まる。
12月13日 - 暁星学校にてハンベルクロード神父により受洗しカトリックに入信。洗礼名:ルカ。(雅号の路可はこの洗礼名に因む)
1915年 暁星中学校を卒業。暁星の寄宿舎の屋根裏部屋で浪人生活を送りながら、渡邊華石に師事し南画を修得。第 2回 院展入選。
1916年 東京美術学校(現/東京藝術大学)日本画科に入学、松岡映丘に師事。第 3回 院展入選。
1920年 第 2回 帝展に入選《エロニモ次郎祐信》(日本画)。三木露風に《聖ドミニコ像》を贈る。(現在、三鷹市蔵)
1921年 東京美術学校日本画科を卒業。卒業制作《流さるる教徒》(日本画)(現、東京藝術大学蔵)。≪自画像≫(油彩)を制作(現在、藤沢市蔵)
5月、パリ・ヨーロッパへ遊学。欧州航路・賀茂丸の船中で徳川義親侯爵と知り合い以降~親交を深める。
パリに住みシャルル・ゲランの門下として西洋画を修得、肖像画を専攻。
1922 - 23年 アンデパンダン展、サロン・ナショナル展、サロンドートンヌ展(香壺 / プラハ国立美術館蔵)、(ある朝 / 多摩美術大学蔵)、(ブルターニュ農夫の家族 / リール美術館蔵)と立て続けに入選。
1924年 松本亦太郎 東京帝國大学教授、澤村専太郎 京都帝國大学助教授、結城素明 東京美術学校教授らから西域壁画の日本画による模写を依頼される。
7月から大英博物館(ロンドン)、フェルケルクンデ(民族学)博術館(ベルリン)の西域壁画を模写。
1925年 5月までフランスのルーヴル美術館とギメ美術館における模写。続いて再びドイツとイギリスで摸写。パリで開催された現代産業装飾芸術国際博覧会(通称=アール・デコ博)の日本館の展示に参与する。
ブリュッセル文化美術博覧会の日本美術館建設と陳列に参与し、シュヴァリエ・レオポール二世勲章授与。ベルリンの日本美術展開催に小室翆雲代表と参与。
1926年 2月、摸写作業の大方が完了しパリに戻る。「南仏海岸風景」(日本画)を制作。(現在、藤沢市蔵)ポール・アルベール・ボードワンが主宰する
国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール パリ)のフレスコ研究所(フォンテーヌブロー研究所)でフレスコ画の技法を学ぶ。また、西域壁画の模写の業績が評価され、サロンドートンヌ会員に推挙。
1927年 香取丸で帰国し、神奈川県藤沢市鵠沼の旧居に住み、アトリエを構える。同年、第7回新興大和絵会展にフレスコ画《アンレブマン・エウロペ》などを出品。
カトリック長崎司教区のヤヌアリオ早坂久之助師が日本人として初めて司教へ叙階されたことを表慶して《切支丹曼荼羅》(日本画)(バチカン宣教民族美術館蔵)を教皇ピオ11世に奉献。
1928年 1月15日 - 菊池登茂と結婚。同年、後にカトリック喜多見教会となる狛江の伊東家聖堂(東京)に日本で最初のフレスコ壁画《聖母子・教会の復活と聖ミカエル・殉教者と聖ザビエル》(新設されたカトリック喜多見教会へ移設された後、現在、大和市聖セシリア学園・八角堂に移設)ならびに《天地創造》(建物の解体にともない遺失)を制作する。
11月3日 - 長女・百世、誕生。黒澤武之輔、木村圭三、佐々木松次郎、近藤啓二、小倉和一郎らと「カトリック美術協会」を結成。
1929年 国民新聞に連載の小説家・大佛次郎『からす組』挿絵担当。
1930年 ローマ開催の日本美術展覧会に横山大観、松岡映丘、平福百穂などの随員として派遣、カヴァリエーレ・コローナ・デ・イタリア勲章を授与
この期に教皇ピウス11世に拝謁、欧州各地を周り映丘と共にアメリカ、ハワイ経由で帰国。銀座・資生堂ギャラリーで周遊スケッチ展を挙行。《HYDE PARK LONDON》(日本画)《ナイアガラ瀑布展望》(日本画)などを発表。
1932年 第一回カトリック美術協会展(於、上智大学)に《街を往く教徒》(日本画)、《細川ガラシア夫人像》(日本画)、《ある殉教者》(日本画)、≪オスチアの夜≫(日本画)、≪ノートル・ダム・ド・パリ≫(日本画)などを出品。ジャワ、バリ島など南方の島々を廻る。
1933年 第二回カトリック美術協会展(於、上智大学)に≪曳かれ行く教徒≫(日本画)などを出品。
徳川義親候邸(東京・目白)玄関ホール、食堂壁面に《狩猟図》《静物》などのフレスコ画を制作。(一部がストラッポされ、遺族蔵)
1935年 徳川生物学研究所(現・徳川黎明会本部 / 東京・目白の玄関ホール天井画制作)
台湾各地を廻り、台北教育会館にて個展。松岡映丘を中心とする「国画院」結成に参加。
1937年 文化服装学院に出講出講し、服装美学・服装史を担当。鵠沼から前年にアトリエを建設した東京・目白へ転居。
1938年 狩野光雅、遠藤教三と「第一回三人展」を開催。《楢橋夫人の像》(日本画)、《聴く人》(日本画)などを出品。
尾張徳川家納骨堂(愛知県瀬戸市定光寺)にフレスコ壁画制作
1939年 カトリック片瀬教会献堂。内部装飾および《ルルドの聖母》《エジプト避行》《十字架の道行き》(日本画)等を制作。
日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)へ出講。日本画、フレスコ画を担当。共立女子専門学校(現・共立女子大学)に出講。東京・白金台の藤山工業図書館にフレスコ壁画《啓示と創造》《科学と芸術》を、助手の瀬島好正と制作(建物の解体とともに遺失)。
1940年 東京家政専門学校(現・東京家政学院大学)に出講。服飾史を担当。11月22日 - 妻・登茂、東京市療養所にて結核で死去(享年34歳)。死去の数日前のデッサン≪登茂子像≫(遺族蔵)が残っている。
1949年 鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂に《臨終の聖フランシスコ・ザビエル》(日本画)《聖ザビエル日本布教図》(日本画)などを制作。第十回カトリック美術協会展に≪受胎告知≫≪細川ガラシア≫≪長崎のアンジェラス≫を出品。この作品は翌年、バチカンが主催しローマ市ヴィア・ナチオナーレで開催された「宣教美術展」(ESPOSIZIONE D'ARTE MISSIONARIA)に出展する。
1950年 徳川義親候を初代学長とする文化女子短期大学(現・文化学園大学短期大学部)教授に就任。11月15日 - 聖年に際し横浜からフランス船マルセイエーズ号でイタリアに向かう。
1951年 教皇ピウス12世に拝謁、《切支丹絵巻》(日本画)を献呈。金山政英在バチカン代理公使宅で下絵を制作し、日本聖殉教者教会の壁画制作に着手(チヴィタヴエッキア市)。
1954年 10月10日 - 祭壇画と天井画の完成を受けて、バチカンのチェルソ・コスタンティーニ枢機卿をはじめ数多くの教会関係者、カトリック国の大使夫妻、チヴィタヴェッキアのレナート・プッチ市長らを招いた壁画完成の祝別式が行われ、フランシスコ会から「ビアン・フェザンス」(傑出した後援者)の称号を与えられるとともに、チヴィタヴェッキア市名誉市民に推挙される。
日伊合作映画『マダム=バタフライ』のタイトルバックを描く。
1955年 後援者であるブリヂストンの創業者・石橋正二郎の依頼によりバチカン美術館所蔵のポンペイ発掘の壁画《アルドブランディーニ家婚礼図》や、ルネサンス期の洋画を模写する。現在はアーティゾン美術館が所蔵。
教皇庁立ウルバニアーナ大学(ローマ)神学部礼拝堂に、聖フランシスコ・ザビエルの生涯を描くフレスコ壁画の連作:《リスボンでの乗船》《聖イグナチオ・ロヨラとのパリ時代》《インドでの説教》《日本での僧侶への洗礼》《中国・上中島での臨終》を制作。
1957年 8月、日本聖殉教者教会の側廊の小祭壇画、《聖ペテロと聖パウロ》《聖ヨゼフ》《アッシジの聖フランチェスコ》《聖処女マリアの像》《みこころのキリスト像》《パドヴァのアントニオ》六点を完成させて帰国。
1958年 武蔵野美術学校(現/武蔵野美術大学)本科芸能デザイン科講師として出講する。
昭和女子大学短期大学部、日本女子大学へ出講し、服装史を担当。岩国市旧本庁舎にモザイク壁画《繁栄》制作。(市庁舎改築に伴い、作品の一部を近くの公園へ移設。)11月、ブリヂストン美術館(東京)で個展、《山幸彦の物語》三部作(フレスコ) (一部を小作品化)《イタリアの印象》(フレスコ)(藤沢市像)、バチカン美術館模写作品などを発表。
1960年 第20回 国民歌劇協会公演オペラ『細川ガラシア』の美術を担当。日本聖殉教者教会の壁画制作によって第 8回 菊地寛賞受賞。
武蔵野美術学校の教え子を率いて壁画集団「F・M」を結成し、東京・銀座の文芸春秋画廊で毎年展覧会を開催するとともに、様々な公共的な場所での共同作業を展開する。第三回日展に《天正少年使節》(フレスコ)を出品。千駄ヶ谷の宿泊施設「東京青年文化会館」(修養団)の竣工にあたり、フレスコ壁画≪旭日富嶽図≫(希望の富士)を 制作。(ストラッポ、修復の上、現在藤沢市所蔵)
1961年 早稲田大学文学部研究室棟1階エレベータホールに床モザイク画《杜のモザイク》を制作。
ソビエトにおける日本現代美術展に《考古的幻想》(フレスコ)を出品。
1962年 第一回国画人協会展に《孤洞》(フレスコ)《いかるがの春》(フレスコ)を出品。アリタリア航空(イタリア)の就航記念招待で渡伊。日本二十六聖人列聖百年祭に参列。教皇ヨハネ23世に拝謁。
1963年 日本美術家連盟理事となる。
1964年 文化女子大学教授に就任。
旧 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場玄関に床モザイク《悠久(宇宙)》、メインスタンド正面に壁モザイク《勝利》(野見宿禰像)、《栄光》(ギリシャの女神像)を制作する。(現在、国立競技場東ゲート青山門の両側に、修復の上移設)静岡市の旧シャンソンビルにフレスコ画《香の華》を制作。浜松市・鴨江寺の旧国際仏教会館にフレスコ画《寂光》を制作。(現在遺失)仙台・三越で個展、《山の上の街》(フレスコ)などを発表。
1965年 第24回カトリック美術協会展(日本橋・三越)、《耳をそがれた聖三木パウロ》(フレスコ)などを出品。
オペラ『細川ガラシア』の美術を担当 日本二十六聖記念館(長崎市)に《聖フランシスコ・ザビエル像》(フレスコ)を制作。
1967年日本二十六聖人記念館に《長崎への道》(フレスコ)を制作。
6月24日 - 妻ヨシノを同道しイタリアへ渡り教皇パウロ6世に拝謁して《暁のマリア》(日本画)を献上。
6月30日 - ローマで脳溢血発病。7月3日 - 午前5時、脳溢血のため、メルチェ-デ病院(ローマ)にて死去。儀。
没後、従五位勲四等に叙され、「旭日小綬章」追贈。