前半生
ノーマ・デロリス・エグストロームは、
ノースダコタ州ジェームズタウンに、7人兄妹の末っ子として生まれる。母親が亡くなったあと父親が再婚し、継母は彼女に非常につらく当たった。彼女の慰めとなっていたのが、ラジオから流れる音楽であった。彼女が最初に歌手として本格的に歌ったのは、ノースダコタ州
バレーシティのKOVCラジオにおいてであった。彼女はすぐに自分自身のラジオ番組を得ることが出来た。この番組のスポンサーは地元のレストランで、「給与」として料理を提供してくれていた。高校時代およびその後において、ノーマは目についた仕事全てを行った。
ウェイトレスをしたり、別の地元ラジオ局でわずかな給料で歌ったりもしていたのである。ノースダコタ州で最も広く聴かれているラジオ局である
ファーゴのWDAYに所属するラジオパーソナリティであったケン・ケネディの提案により、ノーマは「
ペギー・リー」と名乗ることとなった。継母の虐待に耐えかねた彼女は、17歳で家を出て
ロサンゼルスへ移った。
その後ペギーは
扁桃摘出手術のためノースダコタへ戻り、その滞在中に、
ベニー・グッドマンが拠点としている
シカゴのアンバサダー・ホテルにあるナイトクラブ「バッテリー・ルーム」における演奏会への出演者として呼ばれた。このことがきっかけで彼女は1941年にグッドマンの楽団に参加して2年間務めた。この時期が、同楽団の最も名の知られた時期であるといわれている。
録音
1942年初頭、ペギーは初めての
チャート1位となるヒットソング「誰かが邪魔した」(
Somebody Else Is Taking My Place)を発表。続けて翌1943年には「
Why Don't You Do Right?」をリリース。この曲は100万枚以上の売り上げを記録し、彼女の名を知らしめた。1943年に放映された2つの映画『
Stage Door Canteen』と『
The Powers Girl』では、ペギーはグッドマンと共に歌っている。
1943年3月、ペギーはグッドマン楽団のギタリストであったデイヴ・バーバーと結婚する。その後2人は楽団を脱退。デイヴがスタジオで働き、ペギーは音楽活動を休止して娘ニキの養育に専念していた。しかし彼女は1944年には創設間もない
キャピトル・レコード所属として作曲および収録に復帰した。このレーベルで彼女は数多くのヒット曲を発表した(多くはペギーとデイヴによる作詞・作曲)。例えば「アイ・ドント・ノウ・イナフ・アバウト・ユー」(
I Don't Know Enough About You)や「イッツ・ア・グッド・デイ」(
It's a Good Day, 1946年)などが挙げられる。1948年のレコード年間売り上げ1位となるスマッシュ・ヒットを記録した「マニャーナ」(
Maana)のリリースにより、彼女の「隠退生活」は完全に終わりを告げた。
ペギーは1951年にデイヴと離婚。1950年代前半に数年間キャピトル・レコードを離れるが、1957年に復帰する。彼女は、
リトル・ウィリー・ジョンのヒットソング「フィーバー」(
Fever)や、
ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーの「イズ・ザット・オール・ゼア・イズ」(
Is That All There Is?)の
カバー・バージョンが最もよく知られている。彼女のキャピトル・レコードレーベルとの関係はほぼ30年間に及んだ。一方、
デッカ・レコードと契約していた期間は短い(1952年 - 1956年)ものの、この間に最も評判の高かったアルバム『ブラック・コーヒー』(
Black Coffee, 1956年)をリリースするなど、それは芸術的に豊かな時期であった。デッカ・レコードとの契約中に、ペギーは「ラヴァー」(
Lover)や「ミスター・ワンダフル」(
Mr. Wonderful)などのヒットソングをリリースした。
作曲
若者たちが
ロックンロールに傾倒しはじめた時期、彼女はキャピトルの大黒柱ともいえるアーティストのひとりであった。1957年から、このレーベルでの最後の作品をリリースした1972年まで、彼女はごく普通に年に2, 3本のアルバムを発表し続けた。
女優として
受賞歴