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トラ・トラ・トラ!Blu-ray(1970年)監督 リチャード・フライシャー 舛田利雄 深作欣二
Tora! Tora! Tora!
監督 リチャード・フライシャー 舛田利雄 深作欣二
脚本 ラリー・フォレスター
エルモ・ウィリアムズ(ノンクレジット)
ミッチェル・リンドマン(ノンクレジット)
小国英雄
菊島隆三
黒澤明(ノンクレジット)
原作 ゴードン・W・プランゲ『トラ・トラ・トラ!』[1]
ラディスラス・ファラーゴ『破られた封印』
製作 エルモ・ウィリアムズ
製作総指揮 ダリル・F・ザナック
出演者 マーティン・バルサム
ジョゼフ・コットン
山村聡
田村高廣
三橋達也
音楽 ジェリー・ゴールドスミス
撮影 チャールズ・ウィーラー
姫田真佐久
佐藤昌道
古谷伸
編集 ジェームズ・E・ニューマン
ペンブローク・J・ヘリング
井上親弥
製作会社 ウィリアムズ=フライシャー・プロダクションズ
東映
配給 アメリカ合衆国の旗 20世紀フォックス
日本の旗 東映
公開 アメリカ合衆国の旗 1970年9月23日
日本の旗 1970年9月25日
上映時間 アメリカ合衆国の旗 145分
日本の旗 149分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
日本の旗 日本
言語 英語
日本語
製作費 $25,000,000(概算)
興行収入 $14,500,000 アメリカ合衆国の旗
$29,500,000世界の旗
配給収入 日本の旗 1億9422万円[2]
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『トラ・トラ・トラ!』(Tora! Tora! Tora!)は、1970年に公開されたアメリカの戦争映画である。
1941年12月の大日本帝国海軍による真珠湾攻撃をめぐる両国の動きを題材に据え[3]、日本との合同スタッフ・キャストで制作された。題名は真珠湾攻撃時、日本の攻撃隊が母艦に送信した奇襲攻撃成功を伝える電信の暗号略号「トラトラトラ(『ワレ奇襲二成功セリ』の意)」に由来する。
1970年のアカデミー視覚効果賞獲得作品。
ストーリー
1941年12月、日本軍の先制攻撃を傍受していたアメリカ軍はなぜ警戒命令を出さず、ハワイ真珠湾を見殺しにしたのか。戦時中、人の命は駒のごとく「配置」され「使われ」た。勝利を信じた一途な精神と、戦略に長けた者たちの結末とは。アメリカ軍は真珠湾の陥落によって何を得たのか。無明ゆえの人々がおこした残酷な現実を描く哀しみの群像劇。
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この節の加筆が望まれています。 (2021年12月)
スタッフ
製作総指揮:ダリル・F・ザナック (ノンクレジット)
製作:エルモ・ウィリアムズ
製作補佐:オットー・ラング、高木雅行、久保圭之介
監督:リチャード・フライシャー、舛田利雄、深作欣二
原作:ゴードン・W・プランゲ『トラ・トラ・トラ!』[1]、ラディスラス・ファラーゴ『破られた封印』
脚本:ラリー・フォレスター、エルモ・ウィリアムズ(ノンクレジット)、ミッチェル・リンドマン(ノンクレジット)、小国英雄、菊島隆三、黒澤明(ノンクレジット)
音楽:ジェリー・ゴールドスミス(編曲:アーサー・モートン)
撮影:チャールズ・F・ホイーラー、姫田真佐久、佐藤昌道、古谷伸、萩原健、上田宗男、萩原憲治
第二班監督:レイ・ケロッグ
特殊撮影効果:L・B・アボット、アート・クルイックシャンク
特殊効果:A・D・フラワーズ
美術監督:リチャード・デイ、村木与四郎、ジャック・マーティン・スミス、川島泰造、近藤司
録音:ジェームズ・コーコラン、マレー・スピヴァック、ダグ・ウィリアムズ、テッド・ソダーバーグ、ハーマン・ルイス、渡会伸
編集:ジェームズ・E・ニューコム、ペンプローク・J・ハーリング、井上親弥
助監督:デヴィッド・ホール、エリオット・シンク、村川透(ノンクレジット)、長井博、正森和郎(ノンクレジット)、苅谷俊彦(ノンクレジット)
航空指導:アーサー・P・ウィルダーン退役中佐、ジョージ・ワトキンス海軍中佐、ジャック・カナリー
国防省計画官兼海軍調整:E・P・スタッフォード海軍中佐
技術顧問:園川亀郎、磯田倉之助、高田静男、坂剛
撮影協力:東映京都撮影所、松竹京都撮影所
エルモ・ウィリアムズ=リチャード・フライシャー作品
提供:20世紀フォックス
キャスト
ハズバンド・キンメル海軍大将(太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官):マーティン・バルサム
山本五十六海軍中将⇒大将(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官⇒連合艦隊司令長官):山村聡
ヘンリー・スチムソン陸軍長官:ジョゼフ・コットン
源田實海軍中佐(第一航空艦隊参謀):三橋達也(当初、山﨑努が演じる予定だった。)
ブラットン陸軍大佐(陸軍情報部):E・G・マーシャル
ウィリアム・ハルゼー海軍中将(航空戦闘部隊司令官兼第2空母戦隊司令官):ジェームズ・ホイットモア
クレイマー海軍少佐(海軍情報部):ウェズリー・アディ(英語版)
南雲忠一海軍中将(第一航空艦隊司令長官):東野英治郎
吉田善吾海軍中将⇒大将(前連合艦隊司令長官⇒海軍大臣⇒軍事参議官):宇佐美淳(当初、宮口精二が演じる予定だった。)
ウォルター・ショート陸軍中将(ハワイ方面陸軍司令長官):ジェイソン・ロバーズ
フランク・ノックス海軍長官:レオン・エイムス(英語版)
ハロルド・スターク海軍大将(海軍作戦部長):エドワード・アンドリュース
コーデル・ハル国務長官:ジョージ・マクレディ(英語版)
ジョージ・マーシャル陸軍大将(陸軍参謀聡長):キース・アンデス(英語版)
淵田美津雄海軍中佐(赤城飛行隊長:水平爆撃隊隊長⇔第三航空戦隊参謀):田村高廣
ジェームズ・リチャードソン提督(海軍大将⇒少将、前太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官):ロバート・カーネス(英語版)
ジョセフ・グルー駐日米国大使:メレデス・ウェザビー(ノンクレジット)
モーリス・E・カーツ中佐(太平洋艦隊参謀):G・D・スプラドリン
野村吉三郎駐米大使:島田正吾
近衛文麿首相:千田是也
東條英機陸軍大将(陸軍大臣⇒首相):内田朝雄 (当初、滝沢修が演じる予定だった。)
及川古志郎海軍大将(海軍大臣):見明凡太朗(当初、島田正吾が演じる予定だった。)
松岡洋右外相:北村和夫(当初、辰巳柳太郎が演じる予定だった。)
東郷茂徳外相:野々村潔
木戸幸一内相:芥川比呂志(アメリカ公開版では登場シーンはカットされている)(当初、清水将夫が演じる予定だった。)
鮫島具重侍従武官:青野平義(アメリカ公開版では登場シーンはカットされている)
山口多聞海軍少将(第二航空戦隊司令官):藤田進
大西瀧治郎海軍少将(第十一航空艦隊参謀長):安部徹
来栖三郎駐米特派大使:十朱久雄
奥村勝蔵駐米一等書記官:久米明
結城司郎次特派書記官(駐米大使館):近藤準
堀内正名電信係長(駐米大使館):新井和夫
炊事兵1(主計兵):渥美清(アメリカ公開版では登場シーンはカットされている)(当初、藤原釜足が演じる予定だった。)
炊事兵2(主計兵):松山英太郎(アメリカ公開版では登場シーンはカットされている)
花街の女:市川和子
軍人髭の老人:中村是好(当初、志村喬が演じる予定だった。)
阿曽弥之助一飛曹:井川比佐志
赤城飛行士1:和崎俊哉
赤城飛行士2:岡崎二朗
赤城飛行士3:武藤章生
長谷川喜一海軍大佐(赤城艦長):細川俊夫
和田雄四郎海軍中佐(連合艦隊通信参謀):葉山良二
宇垣纏海軍少将(連合艦隊参謀長): 浜田寅彦
黒島亀人海軍大佐(通称ガンジー/連合艦隊先任参謀):中村俊一
福留繁海軍少将(連合艦隊参謀長⇒軍令部作戦部長):河村弘二
原忠一海軍少将(第五航空戦隊司令官):二本柳寛
下士官(米艦名当て):青木義朗(当初、井川比佐志が演じる予定だった。)
草鹿龍之介海軍少将(第一航空艦隊参謀長) : 龍崎一郎
小野寛治郎海軍中佐(第一航空艦隊通信参謀):三島耕
松崎三男海軍大尉(淵田総隊長機操縦員):宇南山宏(当初、東野英心が演じる予定だった。)
水木徳信兵曹(淵田総隊長機電信員):山本紀彦
三川軍一海軍中将(第三戦隊司令官):須賀不二男(当初、藤田進が演じる予定だった。)
村田重治海軍少佐(赤城飛行隊長:雷撃隊隊長):室田日出男
板谷茂海軍少佐(赤城飛行隊長):稲垣昭三
第一航空艦隊参謀:児玉謙次
第一航空艦隊参謀:雪丘恵介
第二航空戦隊参謀:晴海勇三
反保慶文海軍中佐(赤城機関長):久遠利三
クロッカー書記官(駐日米国大使館):アンドリュー・ヒューズ
ドゥーマン参事官(駐日米国大使館):マイク・ダーニン(ノンクレジット)
野村吉三郎の声(英語部分):ポール・フリーズ
吉川猛夫海軍少佐(森村正・ホノルル総領事館書記生):マコ岩松 ※本編では登場シーンはカットされている。(当初、中村敦夫が演じる予定だった。)
役名不詳:永井秀明 ※本編では登場シーンはカットされている。
渡辺安次海軍中佐(連合艦隊戦務参謀):松本荘吉
日本語吹替
役名 俳優 日本語吹替
フジテレビ版
〈アメリカ軍高官〉
ハズバンド・キンメル司令長官 マーティン・バルサム 久松保夫
ブラットン大佐 E・G・マーシャル 富田耕生
クレイマー少佐 ウェズリー・アディ(英語版) 中村正
ウィリアム・ハルゼー海軍中将 ジェームズ・ホイットモア 島宇志夫
ウォルター・ショート陸軍中将 ジェイソン・ロバーズ 羽佐間道夫
ジェームズ・リチャードソン海軍大将 ビル・ザッカート(英語版) 上田敏也
ジョージ・マーシャル海軍大将 キース・アンデス(英語版) 内海賢二
トーマス・フィリップス陸軍大将 ミッチ・ミッチェル 石森達幸
パトリック・ベリンジャー海軍中将 エドモンド・ライアン(英語版) 清川元夢
〈政府高官〉
ヘンリー・スティムソン陸軍長官 ジョゼフ・コットン 真木恭介
コーデル・ハル国務長官 ジョージ・マクレディ(英語版) 大木民夫
野村吉三郎駐米大使 島田正吾 小林清志
ジョセフ・グルー駐日米国大使 メレディス・ウェザビー 島宇志夫
〈その他〉
フィルダー ビル・エドワーズ(英語版) 内海賢二
クレイマー夫人 レオラ・ダナ(英語版) 寺島信子
ジョゼフ・ロッカード ブルース・ウィルソン 納谷六朗
ジョージ・エリオット チャールズ・ギルバート 野島昭生
ミス・ケープ ジューン・デイトン(英語版) 島木綿子
カミンスキー少尉 ネヴィル・ブランド 今西正男
ジョン・B・アール リチャード・アンダーソン 北村弘一
パウエル ディック・フェアー 仲木隆司
マーチン ラリー・トール 緑川稔
ニュートン ケン・リンチ(英語版) 田中康郎
演出 春日正伸
翻訳
効果 赤塚不二夫
調整 山田太平
制作 トランスグローバル
解説 前田武彦
初回放送 1972年12月1日・8日
『ゴールデン洋画劇場』
21:00-23:00
製作
英米仏独のスタッフを結集してノルマンディー上陸作戦を描いた大作『史上最大の作戦』の大成功に気をよくした20世紀フォックスが、ノンフィクション作品、ラディスラス・ファラゴ『破られた封印』(The Broken Seal)を原作に、日米双方の視点から真珠湾攻撃を描こうとした企画[4]。20世紀フォックスとしては『クレオパトラ』の大失敗で[4]、傾きかけた会社を救ってくれた『史上最大の作戦』の「夢よもう一度」という期待があった[4]。豪腕で知られた当時の社長ダリル・F・ザナックは『史上最大の作戦』をまとめあげた実績を持つエルモ・ウィリアムズを起用して製作がスタートした[4]。製作費は、当初50億円[5]、$22,500,000(81億円)[6]などといわれたが、公開直前の1970年8月と9月の読売新聞には、$33,000,000(118億8千万円)と記載された[7][8]。公開時の週刊新潮1970年10月10日号では90億円[9]。当時はアメリカでも$30,000,000を超える映画はこれが最後だろう、と言われ[8]、20世紀フォックスとしても社運を賭けたものとなった[10]。
黒澤明と『トラ・トラ・トラ!』
撮影まで
1967年4月28日、『トラ・トラ・トラ!』の製作発表が東京プリンスホテルの2階のマグノリア・ルームで行われた。左から菊島隆三、小国英雄、青柳哲郎、黒澤明。
20世紀フォックスは『史上最大の作戦』の成功を、撮影隊を各国のチームに分け、それぞれの国の視点で描かせたことで、3人の監督が客観性を有する結果を生んだことと分析した[4]。本作もその方式が採用され、アメリカ側、日本側双方の場面を別々の監督に演出させ、別個に撮影して組み合わせる方針が決まった[4]。本作は「日米合作」ではなく[4]、あくまで20世紀フォックスが全額出資するアメリカ映画である[4]。日米双方の演出を担当する2人の監督は、20世紀フォックスが任命する単なる雇われ監督であった[4]。日本側シークエンスの監督に誰を起用するかという意見を求められたエルモは迷わず黒澤明の名をあげた。この話を聞いた当時の黒澤はそれほど乗り気でなかったというが[11]、東宝の手を離れて黒澤プロダクション(以下黒澤プロ)を完全に独立させた直後という事情もあり、ハリウッドと組んで大作を撮るという話は渡りに船でもあった。黒澤も当時力をいれて進めていた『暴走機関車』の製作が一時中断になったことから『トラ・トラ・トラ!』の製作にのめりこんでいく。
1967年4月28日、東京プリンスホテルで製作発表があり、黒澤、エルモ・ウィリアムズ、源田實参院議員らが出席[12]。エルモから製作スケジュールの説明があり、この時は撮影開始を1968年初め、1968年末に完成し、1969年初めに公開と発表された。つまりここから公開予定が1年半以上伸びたということになる。
1967年5月26日、アメリカ側の監督にドキュメンタリー映画出身で『ミクロの決死圏』『海底二万哩』などで知られるリチャード・フライシャーの起用が決定した[13]。また配役についてスター中心主義をとらず、脇役を強力な俳優で固めるという方針で、6月からロケ地探しを始めると報道された[13]。
日米開戦史を掘り起こすため、当時の関係者5人が技術顧問に迎えられた[14]。軍事関係に源田實、外交関係・平沢和重、航空関係・園川亀郎、艦隊関係・渡辺安次、造船関係・福井静夫で、脚本作成に協力した[14]。黒澤は膨大な資料を収集した上で、小国英雄、菊島隆三と共同で脚本を執筆し、1967年5月3日に準備稿『虎・虎・虎』を完成させた[15][注 1]。脚本の初稿は当時のスタッフは戦時を知らないだろうという考えから、歴史的背景や説明が非常に多く、そのまま映画化すれば7時間を超える膨大な量で電話帳ぐらいの厚さがあったという[4][16]。
また、黒澤の誘いで日本側シーンの音楽担当として武満徹も参加することとなった。
1967年7月にハワイでエルモ・黒澤・フライシャーらが一堂に会して製作のための話し合いを行ったが、黒澤はフライシャーを好まず、ほとんど成果を見なかった[17]。結局プロデューサーのエルモが脚本の決定稿をまとめあげたが、黒澤は自分の脚本部分のカットが多かったことが気に入らなかった。ここで製作が行き詰るかに見えたが、社長のザナックが自ら来日して黒澤を訪ね、黒澤も訪米してザナックと会談を行ったことで状況は好転した[18]。
アメリカでは撮影用に多くの軍用機が手配され、日本でも福岡県の芦屋町に航空母艦赤城と戦艦長門の巨大なオープンセットが製作されたことで製作は順調に進んだ。
一時製作が延期になっていたが1968年11月からの日本側撮影再開予定に伴い、1968年6月27日の毎日新聞夕刊に「日本側監督に東映の佐藤純弥が決まった。まだ7本目だがダイナミックな演出振りに白羽の矢が立った」と書かれ、この記事では佐藤は第2班監督ではなく、単に日本側の監督」と書かれている[19]。佐藤がB班監督に抜擢された経緯は、佐藤のデビュー作『陸軍残虐物語』を気に入ったからと噂されるが[16]、佐藤は「確かめたことはない」と話している[16]。佐藤は山本五十六にも真珠湾攻撃にも興味はなく、黒澤と一緒に仕事ができるという理由だけでオファーを受け[16]、東映と本数契約を交わしていたが、会社から「行ってこい」と言われ参加した[16]。また「出演者は無名の一般人を起用する方針で、いま選考中。山本五十六役には応募者が殺到している」と書かれている[19]。黒澤の「素人俳優を使う」という提案には20世紀フォックスも震撼した[4]。黒澤は素人の元海軍軍人を使うことで、本物の威厳が出せると考えていた[4]。当然ながら、それまでのようにはいかないだろうと予想されたアメリカの大作映画で、限られた時間の中でそんな無謀なことができるのか、映画関係者は疑問に感じた[4]。20世紀フォックスは、黒澤は経済界に恩を売って、次回作を作ろうとしているのではと解釈していた[4]。
最初のキャスティング
1968年11月初め、1968年12月2日に東映京都撮影所(以下、東映京都)から撮影に入る等、概要が報じられた[14]。なぜ、黒澤が勝手知ったる東宝撮影所でなく、東映京都を選んだのかをはっきり書かれた文献がないが、深作欣二は「詳しい内情は知らなくて聞いた話でしかないわけですけれど」と前置きした上で「比較的大きなステージがあったのと、東宝とのある種のもつれみたいな何かがあって、外で撮らざるを得なかったんですかね」と述べている[20]。
製作スケジュールは1969年3月までに全編の半分強を占める日本側の部分を撮影し、その後、黒澤監督が渡米してアメリカ側の部分を撮影、暮れまでに完成して1970年1月公開の予定、アメリカ側からもリチャード・フライシャーら5人の監督が立つが、黒澤監督は総監督的な立場からその現場に立ち会う、20世紀フォックスのザナック社長も「これは黒澤作品だと全世界に言っている、アメリカ側は、国防省、国務省の協力も大変なもので、真珠湾内フォード島の全面的使用、格納庫の爆破、艦隊や航空機の移動などの協力にも快諾を得たと報じられ[14]、ザナック社長も「製作費はどのくらいかかるか分からない」と話したといわれ[21]、黒澤プロの日本側プロデューサー・青柳哲郎も「製作費はまだ正確に算出できない状態。とにかく『史上最大の作戦』や『クレオパトラ』以上のものになると思う」と話した[14]。また黒澤の「スターを起用すると、どうしてもそのイメージが先行するという考えから、主要キャストに素人を起用することは日米双方で合意した基本方針と説明があり[14]、「キャスティングは一年かかってようやく決定した。顔が似ているということが絶対条件だったわけではなく、中身からにじみ出てくるものが選考基準になった」などと黒澤は説明した[14]。山本五十六役には高千穂交易の鍵谷武雄社長など、主要キャストの決定もこのとき報道された[14]。俳優の出演者は青柳プロデューサーが"黒澤作品"という"錦の御旗"を看板に安く口説き[22][23]、しかも3か月から4か月の拘束という悪条件を飲ませたといわれる[22]。
1968年11月26日、20世紀フォックスと黒澤プロの共同製作になる『トラトラトラ』〔ママ〕の主要出演者決定披露の記者会見が東京ホテル・オークラで行われた[24][25][26]。大きな話題を呼んだのが黒澤が山本五十六などの軍人役としてプロの俳優でなく演技の素人を大量に起用したことで[25]、そのほとんどが財界人[24][25]。黒澤の意向により、財界人中心の集まりである東京キワニスクラブに出演依頼の声がかかり、黒澤の面接を経て、海軍経験者を中心に会員十数名が選ばれた[27]。主役の山本五十六には高千穂交易の鍵谷武雄社長、宇垣纏参謀長に前防衛事務次官・三輪良雄、黒島亀人参謀に彫刻の森美術館常務理事・牧田喜義、第六艦隊司令長官清水光美中将に東急国際ホテル常務・岩田幸彰、航空隊参謀長大西瀧治郎少将に日本短波放送常務・安藤審、山口多聞に北野建設社長・北野次登、福留繁に青木金属興業社長で日本陸連幹部・青木半治、伊藤整一軍令部次長に八千代製作所社長・南出他一郎、野村吉三郎駐米大使に長野放送専務・小幡康吉、来栖三郎全権大使に伊藤忠商事常務・片桐良雄、喜多長雄ハワイ総領事に東洋エチル常務・永井邦夫、木戸幸一内府に幸一の二男で国際弁護士の木戸孝彦、東郷茂徳外相に日本音楽著作権協会理事長・春日由三(平沢和重代理)などで[24][27]、この会見で役者が演じると発表されたのは、源田實・山﨑努、南雲忠一・東野英治郎、三川軍一・藤田進、吉川猛夫・中村敦夫、近衛文麿・千田是也、東條英機・滝沢修、及川古志郎・島田正吾、松岡洋右・辰巳柳太郎ら[24]。この日発表された全出演者が軍服で記者会見に臨んだ[24]。源田實はこの会見に出席し、源田を演じる山崎努と握手を交わした[24]。ザナックは二度目の来日で『史上最大の作戦』の成功で米国退役軍人会から贈られたという純白の将官衣装という人を喰ったような衣装で出席し[21]、「太平洋をはさんで偉大な日本とアメリカ国民が、歴史上意義あるこの作品に寄せる関心の前に誇りを感じている。アメリカがパールハーバーを攻撃されたことはアメリカ国民は誰でも知っている。もう二十余年も前のことだが反響は大きく、原作が『リーダーズ・ダイジェスト』に載ったのはもう五年も前のことだが、近く一本になって出版されることでもその一端が理解されよう」と話した[24][26]。また黒澤監督による配役決定経緯の説明もあったが詳細は不明。
黒澤の降板
1968年12月2日、京都・太秦の東映京都撮影所で『トラ・トラ・トラ!』日本側シークエンスの撮影が開始された。先の記者会見は意気大いに上がったが、段々妙なことになった[25]。撮影は最初の1週間は快調に進んだが、12月10日頃から黒澤の疲れが見え12月11日撮影休み。翌日再開され3日間撮影したが、黒澤の疲労が回復せず1週間撮影が中断[5][28]。この直後、クランクインわずか3週間後の12月24日[5][28]、20世紀フォックスのプロデューサー・エルモが「黒澤が極度のノイローゼのため、監督を辞退した」と発表した[5][28]。実際は解任通知を黒澤に送った[5]。20世紀フォックスは、リチャード・D・ザナック副社長を東京に出張させて黒澤と直接話し合って解決をしようと譲歩したが[29]、黒澤プロの日本側プロデューサーで英語が堪能とされた青柳哲郎との連絡がマズく[29]、不調に終わり全て打ち切られたといわれる[29]。黒澤が1週間前から過労という理由で黒澤の病状について、主治医と京都大学医学部の計3人の医師から「これ以上仕事を続けるのはむり、長期療養の必要がある」と診断された[28]。黒澤プロ宣伝主任・伊東弘祐は「これで黒澤監督は20世紀フォックスとの契約が切れたことになるが、今後の撮影は共同監督の佐藤純弥氏が12月28日から再開、黒澤プロも従来通り協力していく」と話した[28]。年を越すとセットまで引き揚げ、出演者たちとも契約解除[5]。黒澤は「どうしても撮影を続けたい」と20世紀フォックスのダリル・F・ザナック社長に直訴したが答えは「ノー」[5]。1969年1月19日、黒澤プロの青柳プロデューサーら3人の取締役が辞表を提出し記者会見を開いた。青柳は「黒澤さんが強度の疲労と精神障害に陥り、医師の診断を求めたところ、4週間から8週間の入院加療を要するということだった」と説明した[5]。アメリカの映画作りは26週と決まれば、それを日割りにし、日報を提出する徹底した合理主義で、黒澤は時間をかけて考え、ムードを盛り上げ、一気に撮る完全主義[5]。これが拒否された[5]。また編集権を黒澤が持つか、プロデューサーのエルモが持つかという対立もあったといわれる[5]。
20世紀フォックスは、1969年1月1日付けで日本側の全スタッフの解散を決定[30]。東映京都のセットは取り壊しが始まり、20世紀フォックス側の要望で、1968年12月30日に黒澤プロから口頭で再契約を申し入れられた85人のスタッフも『口頭だから契約は成立していない』という理由で一方的に契約を白紙に戻され、残務整理が始まった[30]。1969年1月6日、黒澤プロのスタッフの手で、首相官邸、海軍省、戦艦長門の長官室の3つのセットが解体され、ライトその他の機材も借用先の宝塚映画撮影所に返却され、東映京都から本作関係の設備は全てなくなった[31]。これを受け、日本編もアメリカに持ち帰って撮影する可能性が高くなったと報道された[30]。
佐藤忠男は「詳しいことは分からないが、黒澤氏のハリウッドへの期待が大きすぎたのが随所で食い違い、心労のもとになったのではないか。それにしても20世紀フォックスは"世界のクロサワ"を表看板にしていただけにPR効果上、ちょっと困るんじゃないだろうか」と述べた[28]。
この3週間の間、撮影はほとんど進まなかった。その原因として黒澤の異常なこだわりや精神不安定があげられる。下記がその例である。
スタッフに作り直しや塗りなおしを命じる。当初艦内の長官室のセットはわざと使い古したように汚していたが、真珠湾攻撃時の参謀源田実が意見役としてこれを見たときに、長官室はすべてがピカピカだったと黒澤に意見した為であった。
スタジオ内が危険だとしてヘルメット着用やガードマンの常駐を求める。
山本五十六役の俳優がスタジオ入りするたびにファンファーレの演奏とスタッフ全員に海軍式敬礼を求める[32]。
カチンコの叩き方が悪いといって撮影助手をクビにする[33]。
海軍病院のシーンでカーテンの折りしわがあることに激怒して撮影中止にする。
黒澤が酒に酔った状態で何度もスタジオに現れたこと
黒澤が選んだ素人俳優たちが満足な演技を行えなかったこと。素人俳優には、実際の元海軍軍人、海軍兵学校(海兵)在籍者もいたが、そのひとりに向かって、海軍軍人の演技ができないとして、「貴様、それでも海兵か!」と黒澤が怒鳴ったことが、旧海軍軍人のあいだで問題になったこともあった。
更に20世紀フォックスに対して、撮影所の半分を買い取るようにふっかけたりと無理難題をおしつけた。
スタッフからの不満も常に耳に入っており、現場でも黒澤の状態を確認していたエルモだったが、なんとか黒澤をフォローしながら撮影を続けさせようとした。しかし撮影がほとんど進まなかったため、12月24日苦渋の決断を下し、黒澤に直接会ってその監督降板を伝えた。
「病気による降板」(黒澤の「病気」の問題は後に映画にかけられていた保険の支払いに関する争いにつながる)という形で行われた監督降板劇の真相はいまだに不明な点が多いが、黒澤と20世紀フォックスの間の契約に関する詳細な問題や、撮影方針の食い違い、黒澤が自らの権限に関しての認識が不十分だったことなどさまざまな問題が背景にあったとされている。また、黒澤自身が生前「僕には(軍隊体験、戦場体験がないので)戦争映画は撮れない。客席に弾が飛んでこない限り、あの恐ろしさは伝わらないだろう」と語っていたともいう[34]。この降板劇の経緯から以後日本では、黒澤の「気難しい完全主義者」というイメージが強くなったとも言われる。
この降板と「病気」名目について、土屋嘉男が黒澤本人に聞いたところ、黒澤は真っ先に「山本五十六の長官室に時代劇に使う連判状があったんだよね。怒る方が当たり前だろう?」と情けなさそうに答え、「俺は、いつもの俺のやり方でやったんだよ。俺は病気でもなんでもなく元気だよ。君にはわかってもらえるけど、そんなことも解らない連中がウヨウヨ居るんだよね」と嘆いている。土屋はまた、「場所が京都東映だったのがいけなかった。東宝だったら慣れっこになっているので何の問題もなかったと思う。東映がいけないという事ではなく、黒澤さんのやる事成す事が一つ一つ奇異に見えたに違いない。当然のことである」と述べている。
さらに土屋は、「当時東映ではヤクザ映画を撮っており、本物のヤクザに偽物のヤクザが、撮影所内にウロウロしていた。黒澤さんの最も忌み嫌うヤクザ。そんな最悪の環境の中で、一段と自己を貫こうとしたに違いない。しかも、身内と思い込んでいた日本側の製作者等にも裏切られ、かつてない傷心を一人味わったことと思う」と黒澤に一定の理解を示している[35]。東映京都は東宝スタジオに比べれば、レンタル料が安いこともあったが[4]、黒澤自身に、当時「東宝でなくても仕事はできる」ということを公に見せたいという考えがあり[4]、東宝からあえて離れようとしたしたことが悲劇の一因となってしまった[4]。東映京都のスタッフとも上手くコミュニケーションは取れなかった[4]。
当時東映と契約し、東映京都でヤクザ映画を撮っていた大木実は「ヤクザ映画を撮影している中で、黒澤さんが何とか海軍流の威厳を保とうとしていたことは、端から見ても気の毒なほどでした」と[4]、同じく東映の俳優・唐沢民賢は「黒澤さんが撮影所に入って来られたとき、ヤクザ屋さんが門のところでタクシーを止めて『誰や?』。黒澤さん怒って帰ってしまいました」と証言している[36]。
当初、吉田善吾海軍大臣を演じる予定だった宮口精二は、最初の撮影に参加し[4]、すぐに撮影が中止されて、自宅で待機していたら、黒澤から電話があり「絶対に再開するから、待っていてくれ」などと涙声で1時間半以上電話を切らなかったと話している[4]。「そんな電話なんて一度ももらったことなかった。こりゃあ、異常事態だと思ったね」などと証言している[4]。
後任監督を引き受けた舛田利雄は黒澤降板の理由を「思想的なことだとか、金銭的なものだとか、そういうことではなく、メンタルな問題と聞いた」と述べている[37]。同じく後任監督の深作欣二は「[黒澤さんは]きっと素人の演技が思ったようにうまくいかないんでキリキリしていたんだという話を、東映サイドで付いたプロデューサーに聞いたことがありました。「やくざ」のこともあってイライラが積み重なり、予定どおり進まないなかで、夜、突然セットの窓ガラスを木刀で叩き破っちゃったとか。そんなこんなでスケジュールも遅延して、向こうの心配したプロデューサーと話をするんだけど、[……]話をすればするほどこじれていったというような話を聞きましたね。(角カッコ引用者)」と述べている[20]。東映プロデューサー・日下部五朗は「東映京都の正門前に赤絨毯を敷いて、毎朝、すでに扮装を済ませた軍人役の俳優たちがそこを通ってスタジオ入りするんです。山本五十六役が立派な車に乗って到着すると、門の脇に水兵の恰好をした男が『軍艦マーチ』をラッパで吹く。何とも荘厳で珍妙な騒ぎでしたね。ある朝、撮影所に行くと、窓ガラスが軒並み割られていまして、深夜、慣れない東映での撮影にストレスが昂じた黒澤さんが暴れてやった仕業と聞きました」などと話している[38]。
押川義行は「このようなケースは欧米ではそう珍しいケースでもないが、日本映画界の国際的信用と"天皇"クロサワのメンツは今後どうなるかが問題だ。ハリウッドの内情に詳しい日本ユナイト映画宣伝総支配人・水野晴郎氏の説明によれば、アメリカ式契約は合理主義に徹していて、食事のカロリーのパーセンテージからトイレの個数や状態といったような日常生活の問題など細かく契約文書に書き込まれ、監督は演出者としてのパートを受け持つだけで編集に立ち会う権利もないのが普通という。『トラ・トラ・トラ!』の場合も決して例外ではなかったはずで、黒澤監督がこれに対してどこまで妥協しどこまで抵抗したのか、今後の為にもはっきりさせておかなければならない。『トラ・トラ・トラ!』の製作発表当時、20世紀フォックスは1969年度大作として『ハロー・ドーリー!』と他にジーン・ケリー演出作品を予定していたが、『ハロー・ドーリー!』がバーブラ・ストライサンドの前作『ファニー・ガール』の揉めごとで製作開始が遅れに遅れため、製作期間に関する契約上の厳しいシワ寄せが『トラ・トラ・トラ!』に集中したことは容易に察せられるし、黒澤監督の"完全主義"が例によって日数オーバーの危機をはらんだことも、20世紀フォックス側にとっては見逃せない重大事であったに違いない」などと評している[39]。