難波通孝氏による岡山県を中心としたイシガケチョウの分布実地調査、幼生期の調査によって生活史(生態)について多くの新知見をもたらし、日本においてイシガケチョウの生態について最もくわしい成書が完成することになった。
大変貴重な私家版本、資料本。
【序文より】
九州大学名誉教授・日本鱗翅学会名誉会長
理学博士 白水隆
この十数年来、日本の南方系の蝶の北方(ないし東方)への分布の拡大が研究者の注目を引いている。そしてこの現象は近年になって一層明瞭になりつつある。日本の蝶でその顕著な例はナガサキアゲハ、ツマグロヒョウモン、クロコノマチョウなどと、本書にとりあげられたイシガケチョウである。
イシガケチョウについて言えば、これまで中国地方や関西で稀に発見されるのは土着種ではなく、南方地域からの拡散による一時的な迷蝶であろうというのが研究家の判断であった。ところが近年のようにこれらの地域における個体数の増大、山間地への進出、さらに幼虫発生の確認などが相次いで起ると、土着圏の北方への拡大は推定できても、どの範囲までが土着圏であるのか、さらに分布北限に近い発見地は土着圏からの二次的拡散であろうと推定はされても、いずれもその真相は不明であった。
著者、難波通孝さんは岡山県を中心として精力的にイシガケチョウの分布の調査を行ったが、その調査の過程において越冬地(土着圏)と、越冬地で発生した第1世代の分散による第2世代以降の発生地が識別できることを見出しにれは予期されなかった幸運である)、現在の分布の真相を明らかにすることができた。著者の当初の目的は分布の実状調査であったと思われるが、その目的に最も効果的な幼生期の調査によって生活史(生態)について多くの新知見をもたらし、日本においてイシガケチョウの生態について最もくわしい成書が完成することになった。
著者、難波通孝さんは熱烈な蝶の愛好者である。蝶の愛好者と言えばたんなる採集家、コレクターを連想する人が多いと思うが、難波さんはその範囲をぬけ出して立派な調査研究を完成した。難波さんはプロの昆虫研究家ではない。家業の余暇をもってこの仕事を成就したその熱意と努力に満腔の敬意を表明したい。ナチュラリストの手本とすべきものと思う。
1994年12月
【はじめに より一部紹介】
イシガケチョウCyrestis thyodamas mabellaは、成虫の姿だけでなく、幼虫も大変奇妙である。また、姿だけにとどまらず、その習性は誠に興味深い。数多い蝶の中で、私の好きな一種である。
1978年に“岡山県のイシガケチョウについでて”と題して、県下における発生の観察を若干まとめたことがある。以来、時々目にする蝶で、ある時はビル街を飛翔する本種を車の中で目撃したこともある。しかし、それら
の多くは第2化以降の個体と思われるものであった。
ところが、最近になって、第1化の新鮮な個体を5月下旬から6月上旬にかけて毎年同じ場所で見ることが多くなった。今年(1994)の5月13日、日頃の運動不足を補うため、岡山市段原にある竜の口山に、妻と散策を兼ねた山登りをした。下山の途中、グリーンシャワー公園の近くでイヌビワが目に入った。このあたりは、前年(1993)の9月27日にイシガケチョウを目撃している場所で、歩きながらずっと気になっていた。
見ると、このイヌビワから簡単に終齢幼虫が見つかった。「あっ、やっぱりいたか」というのが、その時の正直な思いであった。誠にあっけない発見ではあったが、このことは、ここに越冬母蝶が飛び、4月中~下句にかけて産卵していたことを物語っている。イシガケチョウは成虫で越冬するため、越冬の範囲や第1化発生の状況など不明な点が多いのが現状である。
私は、にわかに岡山県南部全体における第1化の発生が気になりはじめた。今、幼虫を調査すれば、第1化の発生地と、その範囲がわかるかもしれない。こうして、16年ぶりに熱い思いでイシガケチョウを追うことになってしまった。調査が進むにつれて、その飛翔を追って兵庫県にも足をのばし、最後は福井県まで遠征した。そして、食樹の一種とされているヒメイタビを求め、広鳥県の宮島にも行った。 今回の調査で、イシガケチョウの越冬範囲および第1化と第2化の発生がどのようになされ、その分布拡大の過程において、何を食樹としているかなど、多くの知見を得ることができた。
本書は、この調査で得られた資料に、多くの方々からいただいた未発表資料を加え、さらに過去の多くの文献資料を引用してまとめたものである。
このまとめが、どの程度、的を射ているものか気にかかっている。ご批判、ご意見を賜れれば幸せである。
本書の出版にあたり、多くの方々からご協力をいただいた。九州大学名誉教授の白水隆博士からは序文を賜り、多くのご指導をいただいた。岡山県立大学の伊藤國彦先生、広島大学の渡辺一雄先生、関太郎先生、岡山市立芳泉中学校の光畑之彦先生からは多くの有益な助言をいただいた。
姫路市の広畑政己氏からは兵庫県に関する全文献についてお世話になった。
鹿児鳥大学の櫛下町鉦敏先生には寄生蜂の同定を、山根正気先生にはアリの同定をしていただいた。小野洋氏にはカメムシを、山地治氏にはハムシの同定でお世話になった。(中略)また、大久保-治、片岡繁也、片山二郎、狩山俊吾、高田真一、難波早苗、西本孝、羽賀実、花田親兵衛の諸先生からはクワ科植物の文献や、
自生地についてのご教示をいただいた。ここに記して、すべての方々に謹んでお礼を申し上げる。
【目次】
序
はじめに
口絵
I調査の目的と方法
Ⅱ調査過程と観察記録
1)イシガケチョウの痕跡を求めて
1)岡山県南部にイヌビワを求めて
2)笠岡~井原~成羽~高梁方面の調査
3)食樹イタビカズラの発見
4)イチジクの調査はじまる
5)兵庫県へ第1化成虫の飛翔を追って
6)ホソバイヌビワでの発生を確認
7)オオイタビでの発生を確認
8)ヒメイタビでの発生を確認
9)福井県へ
2.未発表基礎資料
1)今回の調査でわかった発生の状況に関する基礎資料
2)岡山県関係未発表資料
3)兵庫県関係未発表資料
4)鳥取県関係未発表資料
3.岡山・兵庫県下における第1化と第2化の発生状況
4.越冬の範囲
5.文献からの県別基礎資料
1)広鳥県関係文献資料
2)岡山県関係文献資料
3)兵庫県関係文献資料
6.分布拡大の推移
7.最低気温の上昇と分布の拡大
Ⅲ食樹
1.イヌビワ
2.イチジク
3.イタビカズラ
4.オオイタビ
5.ヒメイタビ
IV生息地の環境
V生態観察
1.産卵
2.幼虫
3.蛹化場所と蛹の向き方
4.羽化
5.配偶行動
6.天敵
文献
おわりに