
軸 「忘らるる 身をば思わず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」
稲垣黄鶴(いながき・こうかく)
軽井沢出身の女流書道家
参照
百人一首は、歌人「藤原定家」(ふじわらのさだいえ/ていか)が、優れた歌人100人の和歌のうちひとり一首ずつ選んだものです。右近は、百人一首では38番目の歌人として登場します。
恋多き女性「右近」(うこん)は、平安時代の女流歌人です。活躍した時期は946~967年(天慶9年~康保4年)ごろとされています。
読み
わすらるる みをばおもわず ちかいてし ひとのいのちの をしくもあるかな
現代語訳
あなたに忘れられる私はどうなっても良いのです。でも、永遠の愛を誓ったのにそれを破ったあなたの命が、神の怒りに触れて失われてしまうことは惜しまれます。
解説
38番歌 右近女性に熱を上げる男性が永遠の愛を誓って口説いたにもかかわらず、熱が冷めて女性のもとを離れていった際に、女性が贈った歌です。
歌に登場する「人」は、誰を指すのか明確ではありませんが、契りを結んだ権中納言敦忠だと考えられています。
歌の解釈は2つあり、ひとつは、自分から離れていった男性をからかうように、挑発している歌と取る見方です。
いい加減な男と誓い合ってしまった自身の後悔と男性への強烈な皮肉を込めたのではないか、という解釈。
もうひとつは、捨てられた我が身よりも神の罰を受ける恋人を案じ、自分を忘れられてしまう悲しみと、いまだに残る男性への未練が見て取れるという解釈です。
稲垣黄鶴(いながき・こうかく)
軽井沢出身の女流書道家
明治、大正、昭和、平成の時代に亘り、女流詞文書家(書道家)として活躍をし2007年103歳没
戦後も引場孤児を救済するために書で寄付金を集める。海外で個展を開き日本の書道を世界に広めました。長い間日本書道院副会長をつとめ、多くの弟子に書道を教える。退任後には日本書道院顧問(名誉理事)をつとめる。書道は岩田鶴皐に師事、得意としたのは近代詩文
・軽井沢町追分の泉洞寺に自筆句碑
・長野県美ヶ原自筆句碑
・愛知県宝飯郡一宮町金沢・長慶寺に自筆句碑
追分宿郷土館、泉洞寺(せんとうじ)句碑や書、雨宮邸 で稲垣黄鶴の作品展示歴あり。旧雨宮邸新座敷の二階には稲垣黄鶴の部屋が再現
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稲垣黄鶴書歴
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明治36年(1903年) 長野県軽井沢町追分に追分宿三浦屋の子孫「はま」として生まれる。
明治37年(1904年) 長野上田市蛭渓の養女となる。
大正02年(1913年) 大正天皇の御前揮亳の栄を賜る。
大正11年(1922年) 岩田鶴皐先生に師事。
昭和13年(1938年) 中華民国北京に於いて興亜書道連盟常任理事となる。
昭和22年(1947年) 貞明皇太后宮に「離燕の情」献納の御下命を拝す。
昭和23年(1948年) 女流書道協会理事となる。
昭和23年(1948年) 書道芸術院審査員となる。
昭和25年(1950年) 毎日書道展委嘱作家となる。
昭和27年(1952年) 日本書道院理事審査員となる。
昭和38年(1963年) 全書作家連盟審査員となる。
昭和30年(1955年) かな書道連盟参与となる。
昭和38年(1963年) 日本書道連盟参与となる。
昭和38年(1963年) フランス個展。
昭和44年(1969年) 日本書道院副会長となる。
昭和46年(1971年) ドイツ個展。
昭和56年(1981年) 日本書道院退任、顧問(名誉理事)となる。
毎日書道展参与となる。
昭和60年(1985年) 軽井沢町名誉町民となる。追分宿郷土館記念特別展
平成17年(2007年) 日本書道院顧問、11月3日103歳で亡くなる。
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参考文献/ 稲垣黄鶴 作品図録、萱原書房・美術新聞社のサイト、書道藝術(1992.9)