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【CD-R盤】 グラズノフ/ヴァイオリン協奏曲 イ短調 OP.82 ヴィエニャフスキー/ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ短調 OP.22 * ガリーナ・バリノワ(Vn) ニコライ・アノーソフ指揮 ソヴィエト国立交響楽団 *キリル・コンドラシン指揮 ソヴィエト国立交響楽団
旧ソ連の女流バリノワによるグラズノフとヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲。 新たなマスターによる再発売。旧盤と同様にドイツ在住ロシア人による音源提供で、エアチェックではなく放送局保管音源のコピーとの思われるが、旧盤よりオリジナルに近い世代の音源からのコピーと思われ、音質は大幅に向上している。 オリジナル音源の録音経緯については後述するように少々不明確な点もあるものの、いずれも聴衆を入れずに行ったセッション(スタジオ)録音でテープに収録されている。 当音源はレンジが広く歪みが大幅に解消され、ヴァイオリンもつややかで、2曲とも録音年代を超えた良好な音質。 ディスク化に当たっては、周波数レンジが高域が12kHz 止まりだったため、ソフトウェアで仮想的にCD規格上限20kHz 程度まで拡大、音質を損ねない範囲でヒスノイズを低減、一部乱れがあった周波数バランスを微調整、テープの損傷によるポップ・ノイズの除去等を行った結果、不満なく鑑賞出来る音質とすることができた。 ガリーナ・バリノワ(1910〜2006)はサンクトペテルブルク(レニングラード)生まれ。 父は弁護士でアマチュア音楽家、母のマリアはピアニストでサンクトペテルブルク音楽院教授という音楽的環境の元で芸術的才能を早くから発揮し、4歳からパウル・コハンスキ,ヨゼフ・アクロンらに師事、10歳でバッハ,メンデルスゾーン,グリーグ,サラサーテの重要作品など、同年齢の子供たちとはかけ離れたレパートリーを演奏したという。 1924年から2年間、パリのエコール・ノルマルでジャック・ティボーにも教えを受け、帰国後は本格的に演奏活動を開始、1937年全ソビエト音楽コンクールで第3位となったが、スターリン自身はバリノワの演奏を最も気に入っていたといわれる。その理由によるものか、1945年7月スターリンの要請を受け、第二次世界大戦終結の際のポツダム会談終了後、会談の場だったベルリン郊外ツェツィーリエン宮殿における公式晩餐会後の記念演奏会に、エミール・ギレリス,ヴラディミール・ソフロニツキーと共に出演(これに対抗してイギリスからグリラー弦楽四重奏団,アメリカからユージン・リスト,スチュアート・カニンが出演した)、ソ連を代表するヴァイオリニストとして活動した。 バリノワは25曲の協奏曲を含む300曲以上のレパートリーを持っていたと言われ、一晩の演奏会でバッハ,ベートーヴェン,ブラームスの3つの協奏曲を演奏したこともあるという(少年時代のメニューインと同様だ)。1954年の「プラハの春」音楽祭や中国ほか旧共産圏諸国でも公演するなど多忙な演奏活動を行い、レコーディングも78回転SPを含め10数点以上存在する。 モスクワ・フィルとは度々共演し、1933年から1960年までほぼ毎シーズン登場、バッハ,モーツァルト(第4番),ベートーヴェン,ブラームス,グラズノフ,メンデルスゾーン,チャイコフスキー,シベリウスの協奏曲を演奏したという。 特にチャイコフスキーについては、ガウク(1936年),エリアスベルク(1941,1942年),ザンデルリンク(1947年),ムラヴィンスキー(1948年),ハイキン(1949年),ロジェストヴェンスキー(1955年)と計8回演奏。1960年にバリノワが最後に共演した作品はカルウォヴィチのヴァイオリン協奏曲だった(指揮はスヴェトラーノフ)。 また1946年から1951年にかけては、ソロ・リサイタルがモスクワ音楽院大ホールで4回開催され、、小ホールのオープン後は1955年までリサイタルを毎シーズン行った。小ホールではニコライエワ、ロストロポーヴィチとのトリオなど、さまざまなアンサンブルの一員としても演奏した。 但し、1956年からモスクワ音楽院(1958年准教授、1967年教授)で教育に携わるようになり、活動の中心が演奏から教育に移っていったらしい。その頃から入れ替わるように、オイストラフ父子やコーガンなどが国際的にコンサートやレコーディングで大活躍し始めることになるが、バリノワが40歳代後半という演奏家としての円熟期にキャリアを中断してしまったことは残念なことであった。バリノワ本人としては多忙な演奏活動・演奏旅行を嫌ったのとも想像される。また、マリア・グリンベルクのようにソ連国内では高い評価を受けていても、国外(特に西側)へのツアーが制限された演奏家は数多く、バリノワもその一人だったのかも知れない(偶然だがバリノワとグリンベルクはともに夫がスパイ容疑で銃殺刑となっている)。 当ディスクの音源はその録音経緯が不明と先に述べたが(当音源そのものは放送局由来と思われる)、グラズノフについては1952年録音で、32年後の1985年メロディアから発売されたLPがよく知られており、元は放送録音だった可能性が大きい。しかし、それ以前の1957年に日本の新世界レコード社(メロディア・レーベルの当時の日本側契約先)からLPが発売されており、1950年代中期頃までにソ連本国でもごく少数のLPがプレスされた可能性がある(日本以外の諸外国における発売は未確認)。一方、1949年録音のヴィエニャフスキについては、おそらくLPは存在せず、2002年に韓国イエダン・レーベルからCDとして発売、その後、2013年にモスクワ音楽院の自主レーベルから「初登場」としてCD発売された。このような経緯からヴィエニャフスキは放送録音であろう。 当時のソ連では、国営レコード会社メロディアと放送局それぞれの録音チームが別個に存在していたはずだが、レコード発売のためのセッション録音,放送用スタジオ録音,コンサートのライブ録音等の音源が区別されることなくレコード化・発売される傾向にあり、このように当ディスクのグラズノフとヴィエニャフスキのオリジナル音源が当初どのような目的で録音されたか不明である。 いずれにしても録音の形態を問わず、共産党当局の権限が強い当時のソ連では、演奏家の立場は軽視され、彼らが録音のプレイバックを聴き、著作物の発売・放送を承認する権利は事実上存在しなかったから、おそらく通し演奏の一発録りで、明らかにミス以外は修正なしという、ライブ録音に近い形式で録音されたのだろう。 ヴァイオリニストのイーゴリ・ベズロドニーは「ガリーナ・バリノワのコンサートはいつもエキサイティングなイベントだった。モスクワ音楽院大ホールで何か重要なことが起こっているという感覚を今でも覚えている。バリノワが演奏した多くの作品の中で、私がまず最初に挙げたいのは、当時はあまり演奏されていなかったグラズノフとシベリウスの協奏曲である」と語っており、バリノワがこれらの作品の演奏で高い評価を受けていたことが分かる。 |
| レーベル: | AURORA |
| 品番: | AK30002 |
| Stereo/Mono: | Mono |
| 録音: | 1947, 1951、モスクワ、ライヴ録音 |
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