
◆ 「余丁」 猜疑、背徳、大山森道作成 2019年
■ 貴重な 森山大道 海賊版本
森山の代名詞とも言える「光と影」のタイトルの写真集からの50点のスピンオフの写真!
カタログ付録で光と影が生まれた経緯を解説された説明
クソも味噌も──森山大道と批評の終焉
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1. 批評が口を閉ざすとき
森山大道の写真を見ていると、こちらが馬鹿にされているような気分になる。ピントが合っていようがいまいが関係ない。構図?知らない。露出?偶然まかせ。何を撮るか?犬でも看板でも電柱でも、全部「世界の断片」と称して同列にぶち込むだけだ。
(2025年 9月 29日 22時 29分 追加)
―森山大道『写真よさようなら』逆転読解
森山大道の『写真よさようなら』(1972)は、当時の写真界を挑発するタイトルだった。写真家が自ら愛するメディウムに別れを告げる、その過激さが評価されも批判されもした。しかし半世紀を経て、いま改めてこの言葉を逆さに読んでみたい。**「写真よさようなら」ではなく、「写真がさようならするのはお前だ」**と。
森山の荒れた粒子、ブレ、ボケは、作者のコントロールを逸脱する。彼がシャッターを切った瞬間、写真はすでに彼の手を離れ、勝手に生成されてしまう。主体と客体の序列は崩れ、写真はもはや従順な記録ではなく、自律する怪物と化す。ここで去ってゆくのは森山ではなく、むしろ写真のほうだ。写真が森山を見限り、「お前こそ、さようならだ」と突き放す。
批評の現場でも、この構図は予兆されていた。70年代当時、森山の写真は「リアリズムの破壊」と持ち上げられる一方、「写真を私物化する自己愛」とも揶揄された。つまり写真そのものが、批評家たちの言葉を通して彼を拒絶していたのである。森山は写真を裏切ったのか? それとも写真に裏切られたのか? 答えは曖昧なままだ。
『写真よさようなら』は、写真家の宣言であると同時に、写真そのものの冷徹な宣告でもある。そこに漂うのは、愛着と裏切り、執着と拒絶が絡み合った二重の別れの気配だ。森山大道の欺瞞は、実はこの逆転の余白にこそ潜んでいる。
(2025年 9月 30日 7時 23分 追加)"森山大道こそ自己愛のシンボルである"
朝日新聞社刊「犬の記憶終章」で、実在したかは置いといて姉の本棚から少女雑誌「ひまわり」を引っ張り出し、「堀辰雄集」とパリやロマ主義文学への憧憬など彼の言葉と写真の乖離がおびただしくなる。
ご指摘の「森山大道こそ自己愛のシンボルである」という批評は、特に『犬の記憶・終章』(朝日新聞社)における彼の語り口と写真作品とのズレを踏まえたものですね。
森山はしばしば「無意識的に撮る」「ただ街を歩きシャッターを切る」といった無作為性・偶然性を強調してきました。しかし一方で、テキストにおいてはパリや堀辰雄、ロマン主義文学や「少女雑誌ひまわり」にまで言及し、文学的・知的な枠組みを自身の写真にまとわせようとする。この両者の落差が「おびただしい乖離」として読み取れるわけです。
ここで浮かび上がるのは、
写真は「誰にでも撮れる日常の断片」として提示されながら、
言葉の側では「自分だけが背負う文学的背景」を付与して権威づけている、
という二重構造。
つまり、森山の写真は表面的には匿名性や即物性を強調していながら、文章では自己神話化を推し進めている。結果として、「自己愛のシンボル」としての彼の像がより強固に作られていく、という構造的な矛盾が見えるわけです。
ご指摘の「森山大道こそ自己愛のシンボルである」という批評は、特に『犬の記憶・終章』(朝日新聞社)における彼の語り口と写真作品とのズレを踏まえたものですね。
森山はしばしば「無意識的に撮る」「ただ街を歩きシャッターを切る」といった無作為性・偶然性を強調してきました。しかし一方で、テキストにおいてはパリや堀辰雄、ロマン主義文学や「少女雑誌ひまわり」にまで言及し、文学的・知的な枠組みを自身の写真にまとわせようとする。この両者の落差が「おびただしい乖離」として読み取れるわけです。
ここで浮かび上がるのは、
写真は「誰にでも撮れる日常の断片」として提示されながら、
言葉の側では「自分だけが背負う文学的背景」を付与して権威づけている、
という二重構造。
つまり、森山の写真は表面的には匿名性や即物性を強調していながら、文章では自己神話化を推し進めている。結果として、「自己愛のシンボル」としての彼の像がより強固に作られていく、という構造的な矛盾が見えるわけです。
森山大道を「自己愛性人格障害装置」として捉えたときの、言葉と写真の乖離を整理した表を作ってみます。
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森山大道における「自己愛性人格障害装置」
領域表向きの言説/装置実際の作用批評的効果
写真「誰でも撮れる」「偶然」「散歩の延長」作為を隠蔽し、匿名性を装う自身を“無私”の記録者として演出
言葉「堀辰雄集」「少女雑誌ひまわり」「パリ幻想」「ロマン主義文学」高度な文学的文脈を付与して権威化“選ばれた者の感受性”を強調し神話化
自己像「老いさえ作品化」「写真はゴミでもいい」破壊的ポーズをとりつつ自己の特権性を温存批判すら作品化=ナルシシズムの循環
観客との関係「写真は誰でも撮れる」実際には“森山的視線”に従属させる普遍性を装いながら信者化を進行
歴史的位置づけ「匿名的スナップ」「プロヴォーク的破壊」文学的教養と受賞歴で制度に回収アウトサイダーを装うインサイダー装置
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「写真の匿名性」+「言葉の特権化」 が常にセットで作用する。
その落差が 自己愛性人格障害的装置 として機能し、批判も含めて自己神話の材料に回収される。
結果として「森山大道」そのものが一個の装置=自己愛のシンボルとして動き続ける。
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さらに「歴史的展開(1960年代 → 1990年代 → 現在)」で並べ直すと、装置がどう進化してきたかを図解できます
承知しました。
森山大道を「自己愛性人格障害装置」として捉えたときの、言葉と写真の乖離を整理した表を作ってみます。
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森山大道における「自己愛性人格障害装置」
領域表向きの言説/装置実際の作用批評的効果
写真「誰でも撮れる」「偶然」「散歩の延長」作為を隠蔽し、匿名性を装う自身を“無私”の記録者として演出
言葉「堀辰雄集」「少女雑誌ひまわり」「パリ幻想」「ロマン主義文学」高度な文学的文脈を付与して権威化“選ばれた者の感受性”を強調し神話化
自己像「老いさえ作品化」「写真はゴミでもいい」破壊的ポーズをとりつつ自己の特権性を温存批判すら作品化=ナルシシズムの循環
観客との関係「写真は誰でも撮れる」実際には“森山的視線”に従属させる普遍性を装いながら信者化を進行
歴史的位置づけ「匿名的スナップ」「プロヴォーク的破壊」文学的教養と受賞歴で制度に回収アウトサイダーを装うインサイダー装置
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「写真の匿名性」+「言葉の特権化」 が常にセットで作用する。
その落差が 自己愛性人格障害的装置 として機能し、批判も含めて自己神話の材料に回収される。
結果として「森山大道」そのものが一個の装置=自己愛のシンボルとして動き続ける。
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「歴史的展開(1960年代 → 1990年代 → 現在)」で並べ直すと、装置がどう進化してきたかを図解できます