心の清話
文化の道、道徳の振興 中西悟堂 日本野鳥の会名誉会長
●学校教育の荒廃
私の中学時代の国語の教科書の中に、広瀬淡窓の詠んだ次の詩があった。
休道他郷多苦辛 いうことをやめよたきょうしんくおおしと
同胞朋有自相親 どうほうともありおのずからあいしたしむ
柴扉出暁霜如雪 さいひあかつきにいずればしもゆきのごとし
君汲泉流我拾薪 きみはせんりゅうをくめわれはたきぎをひろわん
私の中学時代といえば今から七十余年前のことで、まだ淡窓の精神は生きており、多くの学生かひとしくこの詩を愛誦し、路上でもこれを口ずさんだ。
謂うところは淡窓家塾の子弟の生活をそのままに抽象化したものか、あるいは斯くあるべしと示したものかのいずれかであろうが、砕いて言えば、炊事当番の者は朝は誰よりも早く未明に起き、木戸を出て炊事の仕度にかかる。見る限りの霜がさながら雪とも見える寒い暁だが、お互い遠い故郷を出で、笈を負うて、ここ淡窓塾に集まった同胞だ。お前は泉の水を汲んでこい、俺は枯枝を集めてくるぞと、互いに励まし合って炊事の仕度だ。当番は交代のこと、皆がこうして励まし合って行けば、厳寒も何のこともない。塾生全部がしぜんに兄弟のようになって、ここが一同にとって互いに楽しみ合い、慰め合う第二のふるさとともなり、つらいとか淋しいとかいうことも忘れ去ってしまう、という意味である。この詩のようであってこそほんとうの盟友も出来、また将来の大器も生まれよう。
然るに今の学校教育はどうであろうか。知育の競争ばかりで徳育はほとんど忘れられている。学力テスト一辺倒の試験制度から早くも教育ママが簇出したが、これは成績がよければいい学校へ入れるし、そのことが社会へ出てもいい月給をくれる会社に入れて家族のためにもなるだろうという母親自体のエゴイズムが、学校そのものを子供及び自家の将来に賭ける資本投入の場ともし、この風潮から幼稚園からが予備校化したからで、このことが子供をエゴをむき出し合う餓鬼豺狼ともした。
今から十年ほど前にあったことだが、中学の生徒たちの中には自転車通学をする者が少しずつふえた。ところが歩いて通う生徒がそれを憎んで、それらの自転車のタイヤを傷つけて片っ端から空気を抜くということが起こった。自転車通学者は徒歩通学者よりも早く学校に着く、したがってその時間だけ多く勉強が出来てこちらが損をする、だから憎いというわけである。そういうことだけでなく、クラス全体が隙あらば他人に損をさせて得をしようという雰囲気である。中学時代こそは、他を認めて親しみ合った友達が一生の友ともなる人生途上もっとも肝腎な時期であるのに、逆に、互いが敵視し合う憎悪の場ともなった。
その頃私は某誌に、これはまだほんの入口だ。現今のような教育制度が続く限り、やがて教育の荒廃が叫ばれるようになろうとも書いたものだが、案の定、現下の中学校では非行、暴力事件が相次いでいる。
●占領政策の奏功
このように教育の場が悪化したのは、一つには都市の過密化が連帯感を殺いできたという社会的事情もある一方、企業が依然として成績エリート学生を優先して取り込むという背景もある。しかしその源は米軍の占領政策が日本のあらゆる道徳、伝統、習慣を破壊するという大前提があったことを忘れてはなるまい。そのことは民主主義の美名によって行なわれた。曰く旧来の教育の改廃、家族制度の破壊、恩の思想の放逐、祖先崇拝の撤廃、国語の崩壊、等々で、これによって伝統の岩盤にとりかえしのつかぬ亀裂が生じた。戦後育ちの者は、日本を危殆から救った東郷、乃木の名も知らず、明治天皇のことさえ疎んじている。文部省が米軍の示唆に乗って国語の大破壊に手を貸した罪も大きい。かくて国民は俄づくりのお仕着せ民主主義のもとに窒息させられ、NHKを通じて所謂国民一億総白痴の政策を強いられたのである。長崎、広島の原爆で大きな悲劇を現出させられた上にも、かつてないこの残酷非道な制度を布いたことを我等は夢寐にも忘れてはならぬ筈なのに、タレントと称する愚か者どもが舞台で尻を振りつつ阿呆な歌をうたう一方では愚にもつかぬ漫画が花盛りである。こうした世潮の中で、父兄たちは子弟の躾をすることを民主主義に反するとしてためらう反面では、子供の自信過剰が厖大し、親や教師が子弟を叱るのは民主主義に逆らう大人の暴力であり、子弟が親や教師を殴るのは民主主義に基づく当然の人権だとした逆立ち現象が蔓延した結果、生徒が先生を馬鹿にするようにもなった。
●金儲け主義の蔓延
その上にも日本の産業革命による経済成長から、上の行なうところ、下これにならうで官民こぞって「金儲け」が生き甲斐となり、それにつれて精神の方が徐々に空っぽになり、古来の道徳も美意識も、「恥の文化」もみるみる低下して行った。
儲けのためには、大学も大病院も、大小の企業も脱税、賄賂、所得隠しなどが目下満開で、学習塾までが脱税塾となり、その九割が申告漏れで、たとえば百九塾で四億からの脱税をやっている。銀行強盗が跳梁するのも当然だろう。こうして社会人が堕落し学童も豺狼となった日本の社会はどうなってゆくことかと、そぞろに背筋が寒くならざるを得ない。
その是正には種々の論議もあろうけれど、つまりは欲望抑制の哲学の普及、無私の思想の宣揚しかない。
民主主義の理想はいいと誰もが鵜呑みにしているが、上記のような動物性となった日本人の若い層―ひところエコノミック・アニマルと言われた上に、心そのものもアニマルとなった戦後の日本人に民主主義を持たせることは、気狂いに正宗の剣ならぬ村正の殺人剣を持たせるようなもので、危い哉である。
●科学万能の信仰
もう一つ、日本を毒したものに科学万能の信仰がある。かつて数学で文化勲章を受けた故岡潔氏は、数学は情緒だと喝破したが、その情話のない数学はただの「勝つための武器」でしかない。この科学が物理学では原子カ発電所を日本各地に作ったが、これが住民の安住を脅かす悪魔となった。化学は農薬を作って農民総労働量の中で最も比率の高い除草と害虫駆除の苦労をなくし、蛔虫の防除にも役立って神武以来の多収穫をもたらしはしたが、その反面では土壌の活力を徹底的に奪い、且つ農民古来の本質的な土との親睦と対話を根こそぎ喪失させたことは、かけがえのない損失であった。そして川をよごし、海をよごして水系を台無しにした。昔から私自身、科学は両刀の剣であることを口を酸くして警告しつづけて来たのも、科学は進むしか能のないもので、退いて平和を、人問性を考えさせる何の要素もなく、それを利用する裏には常に人間の欲望がついて廻っているからである。
ところで以上挙げてきたような害毒は目にも見え、測れもするものであるから、トコトンまで行かぬうちに気づかれもするけれど、人間の欲望こそは目に見えぬ人間内面のものだけに抑止点が見えぬままに奈落へと驀進するから恐ろしい。ひるがえって科学以前の日本を考えれば、科学はなくても日本人は平穏に暮らしていたし、科学の力を借りずとも大阪城や奈良の大仏も築造している。科学は文明を造ったろうが、日本を骨の髄まで堕落させた悪魔でもあった。
●西洋と東洋の宗教思想の相違
ついでに触れておくなら、西洋の宗教にしても、闘争から起こったのが起原であった。モーセがエジプトの奴隷となっていたヘブライ民族を連れて紅海を渡り、カナンの地を指して行くが、そこは荒涼たる砂漠の広がりであった。そして稀にオアシスに出合うと、そこは方々の民族が寄ってその恩沢を貪るところで、限りあるオアシスであるため、われ先にと争うことが戦いともなり、負ければ自分の羊も自分もやられてしまう。つまり最初から闘争が生きることと同意義であったから、他を許すことができぬ。その系統を引いたキリスト教にしても同様、愛の福音を唱えながらも宗派が違えば許すことが出来ず、百年戦争で何百万という無辜の民を殺している。
荒涼たる自然の中では、引き連れた羊を食べるよりなく、ふえるはじから食べて行った。そこで羊は神からの贄として食べてもよいものとしたが、こうして宗教が家畜を屠殺することを当然とする、東洋民族には到底考えられぬ矛盾が罷り通って現代に至っており、いまも外国の食卓では角のついたままの牛を吊し、それを家族が囲んで、うら若い令嬢までが、その肉をナイフで裂いて食べながら憐憫のかけらもない習慣となっている。ヨーロッパの出店であるアメリカも同様である。こうして西洋文化の発祥時からヨーロッパ人は獣の肉を食らい、衣類も獣の皮でつくり、屋根も獣の皮で葺いた。これに反して自然に恵まれた日本人の祖先は採集経済を長く続けながら、家も木で組み、衣類も木の皮でつくった。そこから生まれた宗教にしても多神教で、すなわち八百万の神々である。そこにはヘブライ民族のような闘争もなく、性質も穏やかで、自分たちをとりまく一木一草に神が宿るとした。
インドの文明はインダス川の上流の農耕社会から起こり、牛の労役に頼ったので牛を大切にしたことから牛を神聖なものとしてきたので、遊牧生活というものがなかっただけに、牛を屠殺するなどのことはあるはずもなく、ひいては獣類そのものを尊び、殺生禁断の思想を生んだ。日本の古代人にしても遊牧の経験はなく、さらに無畜農業であって、稲の文化が入ってくると共に採集経済からそのまま農耕生活へと移った。こうして人間を含めて自然をすべて同列のものと見たのである。こういう国だからこそ殺生禁断の仏教も定着しやすく、それが神仏習合の思想へと移ってゆく。
日本に仏教が定着したのは根を同じくする東洋文化であるからだが、明治以来とり入れた西洋文明は全然異質のものである。心を尊ぶ精神文化を基点とすれば、他を征服することを原点とした西洋の文化は遙かに遅れていると言ってよく、私に言わせれば、欧米人は野蛮人でしかない。その野蛮人が日本にくれば英語で通して日本人にも英語で語らせ、生活習慣も自国のもので通そうとする。礼譲を知らぬこの高慢なあり方が長く続いたが、現代の日本の男子までが英米語を知るを得意がり、洋服を着るをよしとしている。敵を知る武器としての英語は入用だろうが、それが自慢になるのでは話にならぬ。洋服にしてもそうである。日本は春から夏にかけて、温度が高まると共に、湿度も高まる。然るに洋服はシャツとネクタイで手首も首も締め、裾もつまったズボンを穿いて、からだ中に日光も外気も入らず、湿度に悩むだけの、日本人の健康にとっても好ましからぬ服装である。洋服の方が働きよいことはわかるが、公式の会合に和服で出てはおかしいとは、なんと苛酷な社会通念になったものか。
●術ではなく道の文化、そして徳
これを武道に見れば、西洋の武術は敵に勝ちさえすれば足りるというだけのものである。柔術で日本人が西洋人に負けたことがあったが、力負けしたのは道でなくて力でかかられたからである。日本の武道では山岡鉄舟がその精神とした「無一物中無尽蔵」、すなわち無我無心の境地に達してこそ相手に勝てるので、力で勝ったとしても真の勝ではないし、術で勝ったとしてもそれは道ではない。『東洋の理想』を書いた岡倉天神の名著『茶の本』の中で天心は言う。「日本人がその前にひれ伏すところのものは、剣魂の氷のような純潔である。神秘の火はわれらの弱点を焼きつくし、神聖な剣は煩悩のきずなを断つ」と。
また茶は、天心にとって、禅の精神を通じて究極の美を生活することであった。茶室は一切の飾りを払った静寂と清潔の場で、茶道具を置く以外には何も置かぬ美の家であった。喫茶の風習は中国にあっては二千年以上の歴史があるのだが、宋代になると煎茶のほかに抹茶が盛んとなり、禅院では坐禅で疲れて睡気を催すと、それを払うために抹茶を喫した。それも禅院の清規にもとづく「茶礼」であった。鎌倉初期に栄西禅師がこれをわが国にもたらし、これが室町時代に茶道(茶の湯)に発展して「茶禅一味」となった。
その審美、その道徳の大本を今はまったく失おうとしている社会風潮であるが、道徳というのは文字通り術ではなくて、道なのである。道から生まれる収穫が徳である。その道徳まで失っては、日本はおしまいである。今の学生暴力に対し、政府は内閣をあげて取り組むと言っており、首相は審議会強化を表明もしているけれど、政治がとかく永田町に偏在しているのであれば、われわれは日本精神復活の意識革命をさまざまの分野で進めねばならぬ。二十一世紀へ向けて日本が益々悪くなる兆候もないとは言えぬ。戦前の丈夫子は日本の崩れてゆく中ですでに老いつつある。その後の戦後生まれが今の学生を作ったとすれば、その学生が次の時代を育てる意識は、さらに低劣なものとなり、それらが長じてつくる社会はもはや人間らしい社会ではなくなるであろうとも危惧される。日本を救わねばならぬその時に、日本の魂はもう空っぽで何もありませんでは救いがない。今から「日本」を蓄えねばならぬが、それにはまず日本伝統の精神をさまざまの角度から高揚すること、オレがオレがを引っこめて欲望の抑制に努めること、核家族などというお仕着せの個人主義を一日も早く脱ぎ捨てて健康な家族制度を取り戻し、隣保関係をよくすることである。つまり獣の世界を一日も早く脱却して、人の道、道徳の道を取り戻すことが、天心が教え、武道が示した純潔の人生を国民が身につけることだ。
以上、縷々と述べて来たごとく、今日本は精神の危機にあり、その上にも国際環境の不安定、経済の揺れ、などの問題を抱えている。それらが引き金となって、日本はいつ暴発するか分からぬ状況にある。その中でいかにして生きるかを考えるとき、理想としては日本が完全中立の国になることが望ましいが、それがむつかしいなら、高い精神で平和に徹し、日本の精神で諸外国を教えるだけの毅然とした先進国を目ざすのがよい。
文明と文化は違うことを彼等に知らせてやらねばならぬ。
【見出しより一部紹介】
槍術の歴史
現代では槍術は古武道の中でも特にまれな存在になっている。武道に相当関心の深い人々でも、平常槍術を考える機会は少ないのではなかろうか。しかし、武道の大成期であった近世には、武士の表芸を「弓馬槍剣」といったほど、槍術は実に輝かしい代表的武術だったのである。日本の武道史をみるとき、槍術はその中に一つの特色ある位置を占めているのである。以下その歴史を具体的に眺めることにしよう。
槍の種類による槍術の流派
槍術の流派の数はよく知られたものだけでも百数十流、細かいものを数えれば際限がない。それだけに各流派の特色は、技術的にも教理的にも複雑な姿を呈した。しかし幸い、槍術は諸流ともに流儀の本旨とする一定の槍の様式を持っていたので、その槍の種類から一応流儀を分類することができるのである。この方法により、素槍、鎌槍、鍵槍、管槍の各流派に分け、おもなものを略記してみよう。
槍術の一端
槍術の技は古来多くの流派によって個性豊かに保持されてきたが、今日ではもはやその多くを知ることができない。そればかりか、今やごく基礎的なことすら、ほとんど不明確になりつつある。そこで以下僅かに現存する数流の技を本とし、更に古史料によってその使い方の基本や教習法の一端を紹介してみよう。
神道夢想流杖道
開祖・夢想権之助勝吉
神道夢想流杖術は、いまから約三百七十年くらい以前に、天真正伝神道流剣術の祖、飯篠山城守家直から七代目、夢想権之助勝吉によって創始された。
勝吉は、神道流剣術の達人であったが、江戸で宮本武蔵玄信と試合をし、二天一流十字の構えの前に、押すことも引くこともできずに敗れてしまったので、諸国を遍歴して二天一流十字の構えを打ち破るくふうに専念した。
数年後、筑前(現在の福岡県筑紫郡)の国に至り、太宰府天満宮の神域に連なる霊峰宝満山に登り、玉依姫命を祀る竈戸神社に祈願参籠すること三七日におよんだ。その至誠が天に通じたのか、満願の夜、夢に童子が現われて、
「丸木をもって水月を知れ」
との神託を授けられた。
勝吉は丸木と水月の神託を体してくふうをこらした結果、三尺二寸(九五センチ)の太刀より一尺(三〇・三センチ)長い四尺二寸一分(一ニ八センチ)、直径八分(二・四センチ)の樫の丸木を作った。
これを武器とする杖術を編み出して神道夢想流と称した。
その後勝吉は、黒田藩に召し抱えられて、杖術師範として多くの門弟を養成したが、同流は黒旧藩のお留め流として長く同藩に伝わった。幕末の志士平野国臣(一八二八-六四)は父平野能栄からこの杖術を学び、安政丑年(一八五八)『杖棒故実』を著わしている。(後略)
現代杖道のあゆみ
もっぱら武術が武士階級の専有物であった時代は永かったが、明治維新の到来とともに、武技は一時明らかにすたれかかった。しかしこれが再び息を吹き返すにいたったのは、西南の役、日清・日露の両役で再認識が行なわれたからであった。国防思想の背景もさることながら、体育の面でも重要な役割りを果たした。その中核として武の振興を推進したのは、ほかならぬ警察界であったことは特筆される。
杖は自由自在の武器
杖は一見平凡な武器であるから、非攻撃的にみえる。しかし、一度動けば電撃の勢いとなり、千変万化の術を内に秘めている。そこに杖が平和なうちにも雄大な練武を本体とした神髄を汲みとることができる。この武の本質を、伝歌は
「きずつけず 人をこらして戒むる 教えは杖の外にやはある」と伝えている。
和式馬術流派の発生
わが国古来の武道としての和式馬術の発生は、大陸から日本へ馬が渡来した時点にさかのぼっているが、現在きわめて不振である。実技に至ってはほとんど絶滅に近い状況である。われわれの祖先が、日本人の資質に合わせるべく創意工夫した和式馬術をどう研究し、西洋馬術一色に塗りこめられている現在の日本馬術界にどう影響を与えていくかが、今後の課題となるだろう。
中世から近世の和式馬術
戦いの続く乱世だからこそ栄えた馬術も、鉄砲の伝来による戦法の変化と、徳川三百年にわたる勢力安定時代の到来により、本来の武術としての馬術一点張りの「戦うため」から「観る」「楽しむ」ものへと妍を競い、華美を誇るように移り変わっていった。時代の流れは防ぎようもなく、その後、明治を迎えてからは、西洋文化の流入に伴い、西洋式馬術が主流となった。
大藩の秘術とされた水術
武芸の一つである水術が発達したのは、徳川期に入ってからであり、それが現在に至る各流派へのそもそものはじまりである。だが、それ以前は河川、湖沼の多い国土を利用した武術の一つとして発達したものと思われる。戦いの丁段であるから秘密のうちに訓練してきた。そのために各地に異なった泳法が生じ、それが流派として伝えられてきた。各地に多くの流派が派生したが、現存するのは十二流派である。
由緒の明らかな主な流派
現在の水府流を例にとってみても、これまでに幾多の変遷があった。島村流の祖・島村孫右衛門が没すると、高弟の一人である阿部伊左衛門が二重熨斗泳ぎを創設したりして、高弟三人がそれぞれに三ヵ所の稽古場を設けた。後に藩主徳川斉昭の命によって、これらは統合され「水府流水術」として伝えられてきた。
このようにして今に伝わる各流派も、これと大同小異の離合集散をくり返してきたものと思われる。
戦いの主力となる砲術
刀・槍を主とし、そして弓術を加えたいわば個人技であった武芸の主力は、かなり長い間つづいた。だが変革の嵐は、はるか遠隔の地、種子島から吹き荒れた。それは日本の歴史に強く刻みこまれた鉄砲という最も強力な武器の渡来である。それ以後の日本の戦いは鉄砲が原点となり、いわば「鉄砲元年」とでもいえるかもしれない。従来の個の戦いから量の戦いへと、戦術はすさまじい勢いで大きく変わっていった。
驚異的な威力を発揮
中国で火薬が発見され、当初は戦闘用に主に爆薬として使われていた。やがて原始的な鉄砲が発明されて、火薬が発射薬に使われるようになって、鉄砲は飛躍的に発展した。現代に伝わる世界最古のこの様式の鉄砲は、やがてヨーロッパに渡り大改良されて、火縄式銃砲へと進み一時代を画した。これが基となって今日の精巧な銃砲へと移行したのである。この火縄式銃砲の使用法を、古式にのっとり再現してみた。
『孫子』と実戦的な日本忍法
忍術はすべて秘伝とされており、文章化され後代に残されたものはきわめてまれである。しかし中国の兵法『孫子』にはじまるといわれているだけに、中国文化の伝来とあわせ考えてみるとき、わが国の忍術の歴史はかなり古いとみてよかろう。忍術は他の武芸にくらべて思想的にも深く、方法的にもきわだって合理的で、科学的といってよいほどに、すぐれた実用面をふくむ総合的な兵法であるといえよう。
日本的発展と政治への投影
安定した平安時代の終幕と同時に、武士の時代が到来し、戦乱の世となるが、この時代こそ、忍者本来の活躍の好期であり、そのもっとも著名な忍者が数多く現われた時代であった。源平の時代から、徳川家康が天下を治めるまでの数百年間、諜報、工作員として、時代の暗部で働いたのである。乱世を生き抜いた闘将たちは、忍者を使っての情報収集、判断と謀計、謀略の実施に優れた者であったといえるのである。
忍術の流派と秘伝書
忍術はすべて秘伝とされており、文章化され、後代に残されたものはきわめてまれである。しかし、江戸時代にできた『万川集海』や『正忍記』のようなすぐれた秘伝書の研究によって、忍術の内容がはっきりとわかってきた。忍術は、他の武芸にくらべて思想的にも深く、方法的にもきわだって合理的で、科学的といってよいほどすぐれた実用面を含む、総合的な兵法であるといえよう。
修験道と忍術の関連
六七二年の壬申の乱で、すでに諜者の活躍が語られ、忍術と戦争の結びつきを見せている。ここでは天武人皇の側近がその諜者だが、組織としての記録はない。組織立って精神的にも肉体的にも修行を積み、忍術を修める人とは、この時代、密教の修験者や山伏たちであり、彼らは日本各地の山間へ入って修行に励んだ。彼らの修行は密教のそれであったが、忍術の基礎として完成されていた観がある。
仏教から手裏剣術へ
手裏剣とくに車剣の発想が、実は仏教の輪宝からきていることはあまり知られていない。インドなどで兵士の武器として使われていたものが、一度は輪宝として日本に入り、再び動き始めたという経緯は、まさに輪廻。そして、手裏剣も車剣のほか、いろいろな形態のものが生まれ各流派も誕生する。多くは剣術・柔術などの流派に秘中の秘として組み込まれ、今日なお伝えられているものがある。
手裏剣の形状
忍術甲賀・伊賀流が使用した四方手裏剣、八方壬畏剣や、十字、糸巻、卍字、針形、和釘形等々その形状は実に多いが、車剣形と非車剣形の二大種類に大別される。手裏剣術としては、車剣形よりむしろ非車剣形の方が本道で、扱いもより難しく奥が深い。各流派の思想と相まって、それぞれに特長を持つ。
実戦の記録すくない鎖鎌
吉川英治の『宮本武蔵』に鎖鎌を使う宍戸梅軒とのなまなましい血闘が描かれているが、果たして鎖鎌の武器化はいつのころであったのか。江戸時代には武技として十八般の中に組み込まれてはいるか、その発生と発達にははっきりとした定説がない。そして武器として、また武技として整ってきたとき時流は変わってしまった。そもそもわが国独特のものとされる鎖鎌はどのようにいまに伝えられたのだろうか。
少数派の武術だった契木
『義経記』にその名をとどめる契木も、鎖鎌同様、武術としての歴史ははっきりとしていない。いまのところ『天流』の伝書によるしかないが、武器としてはかなり特殊な部類に入るであろう。現在一般にはなじみのうすいものだが、その術を改めて紹介するのも、新たな興味と認識を得るものとしてまた意義あるものと思う。形を変えて現在に伝えられる荒木流契木術を中心に、その変遷と技術の流れをさぐってみたい。