木下杢太郎
(1885~1945)本名・太田正雄、静岡県生れの詩人、劇作家、翻訳家、医師。
1907年、与謝野鉄幹の新詩社の機関誌『明星』の同人となり、翌年脱退。
同年暮れ、筆頭発起人として、白秋、勇、柏亭、鼎らと『パンの会』を立ち上げる。
鉄幹、敏、荷風、守衛、薫、光太郎、実篤、潤一郎、一平らも顔を出し、
後年、鴎外も訪れ、『鴎外全集』(昭和11年・岩波書店版)の主編集者を務める。
1909年、啄木創刊の『昴』の編集を手伝い、白秋、秀雄と季刊誌『屋上庭園』を創刊した。
1911年、東京帝国大学医学大学を卒業。鴎外の勧めに従い皮膚科を専攻。
1916年から奉天で奉職、1921年からフランスに自費で留学。
1924年帰国して、愛知県立医学専門学校、東北帝国大学、東京帝国大学に奉職。
1943年、植物写生872枚を描き、『百花譜』と呼ぶ。1945年、胃幽門部の癌により没す。60歳。
南蛮情緒的、切支丹趣味的、耽美享楽的と評された詩・短歌・戯曲・小説という文学世界に生きつつ、
医師・医学に没頭できるのは、鴎外、茂吉、不木、不如丘らと同列か?
窓に立つ人(ホフマンスタアル)/ 愛(ヰルドガンス)/ エグモント(ゲエテ)/ 東京の市街(グラアザア)/
瓶の把に就て(ジンメル)/「日本に於ける欧羅巴劇」の講話(ハアゲマン)/ 曹操殺父執 / 黛玉葬花 /
新印象派論(マイエル=グレエフェ)/ ケルン市に於ける國際美術展覽會(フォトラアゲ) 他 / 〇 後記 /