『北野ファンクラブ』(きたのファンクラブ)は、1991年2月14日から1996年3月23日まで放送されていたイースト・フジテレビ共同制作の深夜バラエティ番組である。キー局であるフジテレビでは土曜未明(金曜深夜)に放送され、本番組開始の2ヶ月前に終了したニッポン放送の深夜ラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』のテレビ版かつ後継ともいえる番組である。
番組当初からのコンセプトは「たけしのたけしによるたけしのためのテレビ。」オールナイトニッポン同様「ビートたけし解放区」として、たけしのやりたい事だけで企画構成され「深夜なんだから(放送内容が)嫌なら見なければイイ」ということで制作していた。
ビデオソフト『北野ファンクラブ会報』VHSが2本(過去の放送の名場面+未放送シーンを取り上げたもの)、単行本『北野ファンクラブ』(北野武・監修、高田文夫・編著、フジテレビ出版、「北野ファンクラブ会員証」のおまけ付き)が発売されており、2007年11月21日には3枚組DVD-BOXが発売され、それ以降もDVD蔵出しとして追加3枚が発売された。
たけしがフジテレビ系列でレギュラー番組を持つのは1990年9月に終了した『たけしのここだけの話』(関西テレビ制作)以来となり、フジテレビ制作でのレギュラー番組は『オレたちひょうきん族』の終了以来となる。
本番組は『オールナイトニッポン』同様、ビートたけしと高田文夫をパーソナリティに迎え、直近の時事問題から深夜放送ならではの下ネタまで幅広いジャンルから毎回話題を取り上げて爆笑トークを展開した[1]。
後にたけしは本番組を高田文夫と『オールナイトニッポン』の同窓会的に名残として始められた番組だったと述べている[2]。「オールナイトのテレビ版を作れないか?」とイーストの吉田宏に相談し、『オールナイトニッポン』を制作するニッポン放送の系列のテレビキー局であるフジテレビに提案し、イーストの番組を企画編成担当する鈴木哲夫と深夜の編成部長 (当時) の高橋松徳が快諾、まず特番枠で制作し視聴率と評判が良かったので結果レギュラー化した。
一般的にテレビ番組は2本撮りで収録することが多いが、ネタとして時事問題をトークで扱う性質上、毎回放送日の3日前の火曜日に収録し、ディレクターがすぐに編集する形式で番組が作られていた[注 1]。これにより収録スタジオのレンタル料が嵩み、更に広告費収入の安い深夜番組のため、通常の番組よりもかなりの低予算で制作され、出演者のギャランティも他番組に比べ破格の安さだった[注 2]。そのためセットも最小限に留められ、「北野」の印判をイメージしたパネルとテーブル、その上に東京スポーツや週刊誌[注 3]、黒板数枚[注 4]、番組中期まではそれに加えて床面に敷かれたミステリー・サークル風の大きく描かれた模様パネルだけという地味なものであった。また「コントコーナーの小道具があまりにも安っぽすぎる」ということで美術スタッフの丸山覚と菊地誠&衣裳の高野知子[注 5]を交えて座談会を行った際に、小道具のダイナマイトの制作費がわずか30円というテレビ番組の経費とは到底思えない低価格で制作したことが暴露されている。この極端な低予算ぶりは、たけしが番組内で「深夜で本当に予算が無い番組はこの番組と『姫TV』[注 6]だ」と発言するほどだった。
また番組内ではたけし軍団出演による、海パン一丁や全裸姿のキャラが登場するコントや、当時の人気番組をパロディー化したゲーム、亀有ブラザーズ(たけし、ガダルカナル・タカ、つまみ枝豆、グレート義太夫)の生バンドによる下ネタ[注 7]を絡ませた替え歌コーナーが人気を呼んだ[注 8]。放送数か月で、髪型もオールバックから、ボッチャン刈りに戻している[3]。
放送作家の堀江利幸は、素人時代に当番組の企画募集のハガキを出した際に放送作家志望と明記した事からスタジオ収録の見学に呼ばれ、その際ダンカンからそーたにやおちまさとを紹介してもらい面識を持ったことがきっかけで、その後二人が所属していたテリー伊藤が代表を務める制作会社のロコモーションへ紹介してもらい、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の放送作家となる事が出来たという。また、おちまさとの母親が特番第1回目の放送後に読売新聞のラジオ・テレビの投書欄に本番組を絶賛する内容を投稿し紙面に掲載された事があった[注 9]。
こういった志向が功を奏し、コアなたけしファンにとどまらず夜型生活の若者たちの間で一気に人気が広まる。人気深夜トーク番組の「東西の雄」として、『鶴瓶上岡パペポTV』(読売テレビ)と比較されることも少なからずあった[注 10]。
最高視聴率は、深夜枠レギュラー番組としては当時異例中の異例ともいえる7.9%であった[注 11]。また当番組は、テレビ業界のみならず、各マスメディアからたけしの動向や発言が注目される事から一般視聴率だけでなく「業界視聴率」も極めて高い番組だった。
当番組のトークやコントは1994年12月30日放送の特番『たけし大全集'94 たけしが愛した101人』で再編集放送された。
近畿地区では本来のフジテレビ系列である関西テレビがネットしておらず[注 12]、独立UHF放送局であったKBS京都やサンテレビ、テレビ和歌山が放送されていたが、そのうちKBS京都では一時期水曜の22時から放送されていた時期があり、これを知ったたけしが番組中のトークで「こんな危ない番組をゴールデンタイムに放送しているバカな放送局がある」[注 13]などといった発言をしたことがあり、それを知ってか知らずか、半年後にはKBS京都での放送時間も23時半からの放送に変更された(それでも深夜番組としては早い方の部類に入る)。
放送回数はレギュラー化する1991年4月12日以前の2月13日と3月6日(両日共に水曜深夜特番枠TV-PLUS+90内)と4月5日(レギュラー放送開始1週前特番)に放送された90分スペシャルを含めて、全232回(レギュラー放送225回+90分スペシャル7回)。他に1992・1993年の25時間(1993年は23時間)平成教育テレビ内で『たけしの平成ファンクラブスペシャル』と題して2回生放送を行った。
収録はほとんどが渋谷ビデオスタジオで行われていたが、ニッポン放送のスタジオや船の科学館、神立高原スキー場、逗子湘南海岸などで行われたこともある。『平成教育テレビ』での特別放送『たけしの平成ファンクラブスペシャル』の時は、河田町に当時存在したフジテレビの本社で行われ、多数のスタッフと予算をかけた美術セットや普段より台数の多いカメラとクレーンに対し、たけしがイヤミを言ったこともある。反面『平成教育テレビ』での特別放送では、普段の視聴者のみならず、一般人も多数視聴しており[注 14]、過激な発言や替え歌にクレームが殺到した。
たけしがバイク事故で入院しテレビ出演できなかった期間も、高田とたけし軍団が当番組を支えた。テレビ情報誌によると、1994年10月12日の21時 - 22時54分に当番組主要出演者・スタッフで『ビートたけし被害者の会』という特番を放送する予定だったが、諸般の事情で取り止めとなった。1995年3月にたけしが復帰し番組も元の形態に戻ったが、これ以降たけしは精彩を欠くようになり[注 15]、翌1996年3月に番組は終了した。
本番組終了後も、同じくたけし・高田の司会による『北野富士』や、たけし軍団や女性タレントがトークに加わった『足立区のたけし、世界の北野』と題されたビートたけしメインの深夜番組が継続して放送された。また1993年10月に当番組のゴールデンタイム版として『ビートたけしのつくり方』が半年間放送された。さらに当番組シリーズから派生したものでスカパーで開局した『北野チャンネル』(後のフジテレビ721→フジテレビONEの『チャンネル北野』、『ビートたけしの世紀末毒談』→『ビートたけしの21世紀毒談』)やBSフジの『たけしの等々力ベース』。他に兄弟番組扱いとして、高田が司会兼企画監修、当番組演出のつきざわけんじと編集の井戸清、出演に浅草キッドの『たまにはキンゴロー』『夜鳴き弁天』『ピロピロ』などもある。
なお、番組終了から18年半後の2014年10月17日深夜に当番組が特別番組で復活。番組タイトルは『たけしのダンカン馬鹿野郎!!』と改訂して、放送曜日と時間も当番組とほぼ同じ時間で放送された。出演者はたけし、ダンカン、玉袋筋太郎、〆さばアタル(旧芸名は雨空トッポ)、アル北郷、ビートきよしの6人。当番組からの同じスタッフは企画者のたけしと吉田宏プロデューサー、構成のダンカン、音効の有馬克己、美術の高松浩則の5名が参加した。
使用楽曲と音声について
番組のオープニングテーマ曲は美空ひばりが歌う「STARDUST」。エンディングテーマ曲は、番組初期は1クールごとに変わり、鈴木結女「PART OF LIFE」や藤原久美「卒業の朝」、杉山清貴「青空が目にしみる」「夏服最後の日」、林哲司「悲しみのメモリー」等。また、森田浩司「愛のX」、TWIN FIZZ「BODY」、KAZZ(川上和之)「青空に追いついて」などトライアングル・プロダクション所属のアーティストが歌うものが多かった。さらに遊佐未森「恋かしら」もエンディングテーマとして使われる予定があったが、アーティストと番組のイメージが合わないという理由で実際には使われなかった。
レギュラー化前の90分スペシャル時のエンディング曲は、THE HONNYDRIPPERSの「YOUNG BOY BLUES」が使用されていた。
1993年6月以降では、たけし自身が作詞をし歌った「嘲笑」(玉置浩二作曲)がエンディングで長く使用された(その直前まで使用されていたB・N・O・Tの「愛さなくていいから」は、ハガキ募集のジングルに変更された)。たけしがバイク事故から復帰した番組末期には「浅草キッド」や「たかをくくろうか」、「夜につまづき」、「捨てきれなくて」、「眠れない君が欲しい」、「CITYBARD」、「東京子守唄」、「ハードレインで愛はズブヌレ」、「四谷三丁目」、「バーボンEXPRESS」などたけしが過去にリリースした曲もエンディングで使われていた。番組の最終回の最後は、たけしが「浅草キッド」をフルコーラスで歌いスタジオから去っていく後姿の後にオープニングタイトル[注 16]の「STARDUST」が流れ番組が終了する演出がなされた。
北野ファンクラブビデオ会報1・会報2にて使用されているスタッフロールの曲は、92年1月の番組放送時で使用されたエンディングテーマ、杉山清貴の「LOVE IS YOU」。また、一度だけ使用されたエンディングテーマには、尾崎豊「LONELY ROSE」、鈴木結女「TELL ME」「強さの意味」、SING LIKE TALKING「Steps of love」、藤原久美「純愛」、五十嵐はるみ「LONELY NIGHT」、加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズ91「ワン・モア・ラヴ」、つのだ☆ひろ「メリージェーン」、岩崎宏美「そばにおいて」、山下達郎「クリスマス・イブ 英語版」等がある。たけしが事故で休養中に、軍団がたけし全快祈願のために四国八十八ヶ所巡礼旅に出た回では、ダンカン作詞・義太夫作曲の「ひとつの夏」という曲を作り第161回に義太夫がエンディングで歌った。また亀有ブラザースがマヒナスターズ特集をしていた時期だけエンディング曲に「泣かないで」と「お百度こいさん」が使用されていた。 『たけし大全集'94』のエンディング曲はQUEENの「ボヘミアンラプソディ」が使用された。
コント「暫定ドラマ びっくり仮面」のコーナータイトルバックのテレビ放送時のBGMにはアニメ『聖闘士星矢』のアスガルド&海皇ポセイドン編で使用されていた音楽から「地球戦士フリルマン」に乗り変わって使われていた[注 17]。
たけし復帰直前から最終回直前までのジングル(ハガキ募集のインサート)には、佐藤竹善の「STARDUST」が使用された。
よく使われた効果音は音響効果担当の有馬克己が当番組や『たけし・逸見の平成教育委員会』等の他番組でも使用していた『アッセンブル・インサート』のサウンドトラックから使われた物が多い。
この番組の音声は、放送開始当初からステレオ放送であったが、番組中期頃まではスタジオ内音声をモノラルで収録していた[注 18]。その為、『亀有ブラザーズ』などの替え歌コーナーも、長らくモノラル放送(モノステレオ放送)であった。この手法は、後に家庭用ビデオレコーダーのCMカット機能防止が目的と考えられる一部のバラエティ番組に活用されることとなっていった。なお、1993年11月5日放送分からはスタジオ内の音声もステレオ収録されるようになり、替え歌コーナーもステレオ放送へとグレードアップした。
トークコーナーにおいては、モノステレオ放送時代は原則オープニング直後及びCM明け直後にBGMとして洋楽を数十秒間流していたが、フルステレオ放送化された翌週からは取り止められている。