 
                                 
                     以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです~~
銀の残響、夢の回廊
序章:不眠の夜と南船場の光
アスファルトに反射するネオンが、雨上がりの水たまりで滲んで揺れる。大阪、南船場。西欧の高級ブランドが軒を連ねるこの街は、夜になるとその喧騒を鳴りを潜め、代わりに大人のための静かな時間が流れ始める。齊藤里奈(さいとう りな)、29歳。大学院の博士課程で睡眠医学を専攻する彼女は、その静かな時間の訪れを、ここ数ヶ月というもの、ただひたすらに憎んでいた。夜は、彼女にとって安らぎの時間ではなく、終わりなき思考の拷問が始まるゴングだったからだ。
「……また、今夜も眠れない」
閉館時間をとうに過ぎた大学の研究室。里奈は、青白いモニターの光に顔を照らされながら、誰に言うでもなく呟いた。画面には、被験者の健やかなノンレム睡眠を示す脳波の波形が、美しい紡錘波を描いている。人の眠りを解き明かし、その質を高めるための研究。それが彼女の全てだった。しかし、その専門家である彼女自身が、重度の不眠症に苛まれているという現実は、皮肉としか言いようがなかった。
原因はわかっている。博士論文へのプレッシャー、指導教官である山城教授からの期待という名の重圧、そして、終わりが見えない研究への焦り。それらが複雑に絡み合い、彼女の交感神経を夜通し昂らせ続けているのだ。ベッドに入り、目を閉じても、脳は勝手に覚醒し、論文の構成、実験データの不備、引用文献の妥当性といった思考の断片が、猛烈な勢いで明滅を繰り返す。羊を数えるなんて、気休めにもならない。羊たちは群れをなして崖から飛び降り、その断末魔が里奈の耳から離れないのだ。
「こんな状態では、まともな論文など書けるはずがない……」
自己嫌悪が、冷たい泥のように心の底に溜まっていく。このままでは、研究者としてのキャリアどころか、心身そのものが壊れてしまう。そんな強迫観念に突き動かされるように、里奈は白衣を脱ぎ捨て、ほとんど逃げ出すように大学を飛び出した。
あてもなく、心斎橋筋のアーケードを彷徨う。週末の夜を楽しむ人々の活気が、今の彼女には刃のように突き刺さる。楽しげな笑い声が、自分の孤独を際立たせるだけだった。ふと、強い雨がアーケードの屋根を叩き始めた。雨脚を避けるように、人波が近くのカフェやブティックに吸い込まれていく。その流れから外れた里奈の目に、ふと、一本脇道に逸れた場所に佇む、温かな光を放つ一軒の店が留まった。
『BRAND CLUB』
控えめな真鍮のプレートに、そう刻まれている。ショーウィンドウには、時代も国も異なるであろう美しい宝飾品や時計が、まるで美術館の収蔵品のように、静かに、そして誇らしげに鎮座していた。そこだけが、周囲の喧騒から切り離された、特別な時間の結界に守られているかのようだった。
まるで何かに導かれるように、里奈は重いガラスのドアを押した。カラン、と優雅なドアベルの音が鳴る。店内は、古い木材と革、そして微かに甘い香水の香りが混じり合った、落ち着いた匂いで満たされていた。それは、里奈がここ数ヶ月忘れていた、「安らぎ」という感覚を思い出させる香りだった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、柔らかな声がした。顔を上げると、そこにいたのは細身のフレームの眼鏡をかけた、理知的な雰囲気の青年だった。年は里奈と同じくらいだろうか。清潔な白いシャツに黒いベストを合わせた姿は、まるでクラシックな小説から抜け出してきたかのようだ。胸元のネームプレートには「藤堂 圭介(とうどう けいすけ)」とある。
「……すみません、雨宿りのつもりで……」
しどろもどろになる里奈に、圭介と名乗った店員は、警戒するでもなく、穏やかに微笑んだ。
「どうぞ、ごゆっくり。ここにいる子たちは、物語を聞いてくれる人を、いつでも待っていますから」
「物語……?」
「ええ」と圭介は頷いた。「ここに並んでいるのは、ただの『商品』ではありません。一つ一つが、誰かの人生の一部だった、物語の語り部なんです。彼らの声に耳を傾けていると、時々、不思議な話を聞かせてくれることがあるんですよ」
その詩的な表現に、科学者である里奈の心は少しだけ戸惑った。しかし、ささくれだった彼女の神経には、その非科学的な言葉が、不思議と心地よく響いた。圭介の言葉に促されるように、里奈はゆっくりと店内を見て回ることにした。
アール・デコ様式のブローチ、ヴィクトリア朝時代の繊細な細工が施されたロケットペンダント、そして、名門ブランドのヴィンテージウォッチ。ガラスケースの中で、それらは静かな光を放ち、確かに、それぞれの生きてきた時間を雄弁に物語っているように見えた。誰かの喜びの瞬間に、あるいは悲しみの涙と共に、そこに在り続けたのだろう。
そして、数多の「語り部」たちの中で、里奈の視線は、ある一点に吸い寄せられた。
それは、一対の銀のフープピアスだった。
そのフォルムは、幾何学的な完全性からはほど遠い。まるで、熟練した職人が、一息に、しかしその瞬間の心の揺らぎや呼吸のリズムまでをも写し取ったかのような、不規則で有機的な曲線を描いている。表面には、槌(つち)で丁寧に、しかし不規則に叩かれたであろう微細な凹凸――槌目(つちめ)――が施され、それが照明の光を複雑に乱反射させて、まるで月光を浴びた夜の川面のようだった。冷たく硬質なはずの銀という素材から、なぜか生命の温かみと、そして、言葉にできないほどの深い静けさが感じられた。
添えられた小さなカードには、こう記されている。
『E170【Chelo Sastre】Art Jewelry SLVピアス SPAIN New 重さ約14.0g 幅約2.3×48.7mm』
Chelo Sastre(チュロ・サストレ)。その名前は、里奈も知っていた。現代スペインを代表する、孤高のアーティストジュエラー。彼女の作品は、自然界の有機的なフォルムをインスピレーションの源としながら、極限まで無駄を削ぎ落としたミニマリズムと、強い精神性を両立させていることで知られている。だが、目の前にあるこのピアスは、里奈が資料で見たどのサストレ作品とも、纏う雰囲気が異なっていた。新しい、「New」と記されているにもかかわらず、まるで何世紀もの時を経てきた古代の遺物のような、圧倒的な存在感を放っている。そして何より、その銀の輝きの奥に、微かな「哀しみ」の影を感じ取ったのは、疲弊した心の錯覚だろうか。
「……そのピアスが、あなたを呼んでいるようですね」
いつの間にか隣に立っていた圭介が、静かに言った。彼の声は、里奈を驚かせることなく、すっとその場に溶け込んだ。
「呼んでいる……?」
「ええ。ジュエリーが、持ち主を選ぶことがあるんです。特に、作り手の想いが強く込められた作品は。あなたは、このピアスの声が聞こえたのかもしれません」
圭介はそう言うと、鍵を使ってそっとガラスケースを開け、ピアスを黒いベルベットのトレイに乗せて取り出してくれた。間近で見ると、その有機的な曲線と槌目の質感がさらに際立つ。銀の冷たさの中に、確かに人の手の温もりと、込められたであろう情熱の痕跡が感じられた。重さ14.0g。指先でそっと触れてみると、ずしりとしたその重みは、単なる物質の質量ではなく、凝縮された時間と想いの重さのように、里奈には思えた。
「まるで……誰かが、たった一人のために作った、お守りのようだわ……」
無意識に、そんな言葉が口をついて出た。
その言葉を聞いた圭介は、少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて何かを深く納得したように、ゆっくりと頷いた。
「言い得て妙ですね。実は、このピアスには詳しい来歴がないんです。ある年配のコレクターが亡くなられた後、ご遺族が整理品としてまとめて持ち込まれた品々の一つでして。ただ、『New』、つまり未使用のまま、桐の箱に大切に収められていたことだけは確かなんです」
未使用。その事実に、里奈はなぜか胸が締め付けられるような、切ない感覚を覚えた。これほどまでに強い生命力と美しさを持ちながら、誰の耳も飾ることなく、ただ静かに箱の中で眠り続けてきたというのか。一体、どんな物語が、このピアスをそうさせたのだろう。
その瞬間、里奈の脳裏に、ある衝動が閃光のように突き刺さった。
『私が、このピアスの最初の持ち主にならなければならない』
科学者としての冷静な理性が、そんな非合理的な感情を嘲笑う。ただの銀の塊だ。感傷に浸っている場合ではない。早く研究室に戻って、中断した作業を再開しなければ。そう頭ではわかっている。けれど、数ヶ月にわたる不眠とストレスで疲弊しきった心は、もはや理性の声に耳を貸さなかった。それは、藁にもすがる、というような消極的なものではない。もっと強く、抗いがたい、運命的な引力だった。このピアスを手に入れることが、今の自分を縛る全ての苦しみから解放されるための、唯一の鍵であるかのような、根拠のない確信があった。
「これ、いただきます」
気づけば、里奈はそう口にしていた。圭介は、驚くでもなく、ただ静かに「お待ちしておりました」とでも言うように、微笑んだだけだった。
第一章:銀の鍵、夢の扉
自室のベッドサイドランプの柔らかな光の下で、里奈は買ってきたばかりのピアスを、そっと耳に通した。ひんやりとした銀の感触が、火照った耳たぶに心地よい。重さ14.0g。確かに、その存在を常に意識させる重みだ。鏡に映る自分の顔が、どこか違って見える。ピアスの持つ強い存在感に、いつもの見慣れた自分が負けているような、奇妙な感覚だった。
ベッドに入り、天井の染みを数え始める。いつもの入眠儀式。どうせまた、数時間後には浅い眠りと覚醒を繰り返し、明け方には絶望的な疲労感と共に起き上がることになるのだろう。そう覚悟した。
しかし、その夜は、全く違っていた。
意識が、まるで深い井戸の底に、重りをつけられて沈んでいくように、急速に遠のいていく。抗いがたい、それでいて穏やかな眠気の波。それは、ここ数ヶ月、里奈が渇望してやまなかった、本物の「眠り」の訪れだった。
――そして、里奈は夢を見た。
それは、いつものストレスに満ちた、断片的で脈絡のない悪夢とは、次元が違っていた。驚くほどに鮮明で、五感の全てに訴えかけてくる、もう一つの「現実」だった。
ジリジリと肌を焼くアンダルシアの太陽。乾いた土と、咲き誇るオレンジの花の甘い香りが混じった風。遠くで聞こえるヒラルダの塔の鐘の音と、人々の活気ある喧噪。視界に広がるのは、白壁の家々が迷路のように立ち並び、その間を美しいタイルで装飾された石畳の道が縫う、見知らぬ異国の街並みだ。
(どこ……?ここは、セビリア……?なぜ、私が……?)
里奈は混乱した。夢を見ているという自覚はある。しかし、これはただの夢ではない。まるで誰かの記憶を、その当人の視点から追体験しているかのような、強烈なリアリティがあった。VR映像など比較にならないほどの、完全な没入感。
視線を下に落とすと、見えたのは日に焼けた、しかし滑らかな肌を持つしなやかな腕と、上質なリネンに可憐な刺繍が施された、白いブラウスの袖。自分の腕ではない。風に煽られ、黒く艶やかな長い髪が頬をかすめる。自分の、肩までのボブカットではない。
私は、誰?
広場に面した、古びた工房らしき建物の前で、「私」は足を止めた。中から、リズミカルに、しかし力強く金属を打つ音が聞こえてくる。トントン、キン、トントン、キン……。その音は、「私」の心臓の鼓動と、不思議なほどに共鳴していた。音に導かれるように、「私」は中へ入った。
薄暗い工房の中。炉の燃え盛る赤い光が、壁に無数に掛けられたタガネや金槌、ヤスリといった道具を、不気味な影と共に照らし出している。汗と、熱せられた金属の匂い、そして、何かを創造しようとする人間の純粋な情熱の匂いが、その空間に満ちていた。その中央で、一人の青年が、上半身裸になり、一心不乱に金槌を振るっていた。
年の頃は二十代半ばだろうか。汗で額に張り付いた黒い巻き毛、日に焼けたたくましい背中と腕には、力強い筋肉がしなやかに躍動している。その真剣な眼差しは、彼が左手で持つ、小さな銀の塊にだけ、ただひたすらに注がれていた。
「マテオ」
「私」の唇から、ごく自然に、愛しい響きを伴ってその名がこぼれ落ちた。
青年――マテオは、その声にハッと顔を上げた。彼の瞳は、セビリアの夜空のように深く、黒曜石のように輝いていた。その厳しい職人の表情が、「私」を捉えた瞬間、まるで固い蕾がほころぶように、ふわりと柔らかく綻んだ。その笑顔は、この煤けた工房には不釣り合いなほど、純粋で、まばゆい光を放っていた。
「イサベラ……!来てくれたのか」
彼の声は、少し掠れていたが、深い愛情に満ちていた。
イサベラ。それが、この身体の持ち主の名前らしい。里奈は、イサベラという一人の女性の意識の奥深くで、この光景を見つめる観察者となっていた。
マテオは作業の手を止め、汗を腕で拭うと、イサベラの手を取った。彼の指は、ヤスリや金槌によって硬く、あちこちに傷があったが、イサベラに触れるその手つきは、羽毛のように優しかった。
「見てくれ。君のために作っているんだ。もう少しで、片方が完成する」
彼が示した作業台の上には、あのピアスがあった。里奈が「ブランドクラブ」で手に入れた、あの銀のフープピアス。夢の中のそれは、まだ片方が作りかけであるにもかかわらず、既に圧倒的な生命力を放っていた。槌目の一つ一つに、マテオのイサベラへの想いが、祈りのように刻み込まれているのが、里奈にはわかった。
「……きれい」イサベラは、うっとりとため息をついた。「まるで、月の光の雫を集めて、あなたの手で固めたみたい」
「君の、白い耳で揺れるところを想像しながら作っているんだ」マテオは、愛おしそうにイサベラの髪を撫でた。「君があのアルバレス公爵のところへ嫁いでしまっても、このピアスが俺の代わりに、君の囁きを聞き、君の涙を拭う。そして、いつだって思い出させてくれる。ここに、君を世界で一番愛している男がいることを」
公爵。その言葉に、イサベラの胸が、まるで氷の刃で抉られるように、ぎゅっと痛んだ。その痛みは、観察者であるはずの里奈の胸にも、リアルな感覚として伝わってきた。これは、決して許されることのない恋なのだ。セビリア有数の貴族、デ・ラ・クルス家の令嬢イサベラと、名もなき銀細工師マテオ。二人の間には、当時のスペイン社会において絶対的な、決して越えることのできない身分という名の深い、暗い河が横たわっている。
「行きたくない」イサベラの大きな瞳から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちた。「あなたのいない城で、あの人の妻として生きるなんて、耐えられない。いっそ、このまま二人で、どこか遠い国へ……」
「イサベラ……」
マテオは、イサベラの言葉を遮るように、彼女の華奢な身体を強く、しかし壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。彼の汗ばんだ裸の胸の中から、力強い心臓の鼓動が、トクン、トクン、と伝わってくる。里奈は、夢の観察者でありながら、イサベラの絶望と焦燥、そしてマテオの愛の温かさと、その奥にある深い諦念を、同時に、そして鮮烈に感じていた。
その時だった。街の静寂を切り裂くように、教会の鐘が、けたたましく鳴り響いたのは。
ゴーン、ゴーン、ゴーン……。
それは、定刻を告げる穏やかな音色ではなかった。何か、不吉な出来事を告げる、警鐘の音だった。
工房の粗末な木の扉が、乱暴に蹴破られる。なだれ込んできたのは、アルバレス公爵家の紋章をつけた、武装した兵士たちだった。その手には、松明と剣が握られている。
「マテオ・エルナンデスだな!国王陛下に対する反逆罪、及び異端審問会への涜神の容疑で逮捕する!」
「なっ……何かの間違いだ!俺はただの銀細工師だぞ!」
マテオは叫んだが、兵士たちは問答無用で彼に掴みかかった。イサベラは、恐怖のあまり声も出せず、ただ震えながらその光景を見ていることしかできなかった。マテオが兵士たちによって工房から引きずり出される間際、彼は必死の形相で、血が滲むほど唇を噛み締めながら、イサベラに叫んだ。
「罠だ、イサベラ!公爵の罠だ!だが、信じて待っていてくれ!必ず、必ず戻る!このピアスを、君に着けてやるために……!」
その悲痛な叫びも虚しく、彼は夜の闇の中へと消えていった。作業台の上には、片方がほぼ完成し、もう片方が作りかけの銀のピアスが、松明の赤い光を浴びて、まるで血を流しているかのように、不吉な輝きを放って残されていた。
――そこで、里奈は激しい動悸と共に目を覚ました。
頬に、生温かい涙が伝う感触があった。心臓が、胸を突き破らんばかりに激しく鼓動し、呼吸は浅く速い。窓の外は、ようやく白み始めたところだった。
夢……?
いや、あれはただの夢ではない。あまりにも鮮明すぎる。セビリアの乾いた風の匂い、工房に満ちていた熱気、マテオの力強い腕の温かさ、そしてイサベラの心を引き裂くような絶望。その全てが、まるで数分前に自分が現実に体験したことのように、生々しい感触として身体の芯に残っている。
里奈は、恐る恐る自分の耳に触れた。そこには、ひんやりとした銀のピアスが、確かに存在していた。夢の中で見た、マテオがイサベラのために作っていた、あのピアスが。
まさか。そんな馬鹿なことがあるはずがない。
これは、睡眠科学の研究者として、断じて看過できない異常事態だった。これは、単なる夢ではない。ピアスが触媒となり、過去の所有者の記憶、あるいはその製作に込められた強烈な感情を、追体験した?そんなSFのような話、科学的にあり得るはずがない。記憶は脳の海馬と大脳皮質に保存される電気信号と化学物質の痕跡であり、物体に転写されるなど、オカルトの領域だ。
しかし、一方で、里奈はもう一つの、信じがたい事実に気づいていた。あれほど苦しめられてきた不眠が、嘘のように消え去っていたのだ。昨夜、ベッドに入ってから、一度も覚醒することなく、朝まで深く眠り続けた。身体の芯にこびりついていた鉛のような疲労感が、綺麗さっぱりと洗い流されている。頭は、ここ数ヶ月経験したことのないほど、明晰で、冴え渡っていた。
これは一体、どういうことなのだろうか。
里奈は、ベッドから飛び起きると、研究室のデスクに向かった。そして、新しい研究ファイルを作成し、その冒頭に、震える指でこうタイプし始めた。
『被験体:自己。現象:特定の装飾品(E170, Chelo Sastre作)を介した、過去の記憶と思われる情報の追体験、及びそれに伴う睡眠の質的・量的改善に関する症例報告』
科学者としての冷静な探究心が、恐怖と混乱を凌駕していた。この不可思議な現象を、解明しなければならない。自分の身に起きているこの出来事こそ、現代の睡眠科学がまだ解き明かせていない、未知の領域への扉なのかもしれない。里奈は、停滞していた博士論文のテーマを一時的に凍結し、この「銀の夢」の謎を、自身の研究者生命を賭けて追うことを、固く決意したのだった。
第二章:記憶の残響と学術的探求
あの日を境に、里奈の夜は一変した。銀のピアスを耳にして眠りにつくと、必ず、あの17世紀スペインの夢の続きを見るのだ。夢は常にイサベラの視点で進み、あたかも連続ドラマのように、前回の覚醒の場面から物語が再開された。里奈は、イサベラの喜び、悲しみ、そして日に日に色濃くなる絶望を、自分のことのように体験し続けた。
夢の中で、イサベラはマテオの無実を信じ、必死に彼の解放を訴えて奔走した。父であるデ・ラ・クルス伯爵に涙ながらに訴えた。しかし、アルバレス公爵との縁談による家の利益を優先する父は、冷たく彼女を突き放すだけだった。「名もなき銀細工師のことなど忘れろ。お前は公爵夫人になるのだ」と。イサベラは諦めなかった。伝手を頼って教会関係者にマテオの無実を訴え、密かに弁護士を雇おうともした。しかし、彼女の行動はすべて、婚約者であるアルバレス公爵の張り巡らせた監視網によって筒抜けだった。
公爵の権力は、セビリアにおいて絶対的だった。マテオにかけられた「反逆罪」と「涜神」の罪は、彼がイサベラと会うために、夜、城壁近くの教会で密会を重ねていたことを逆手に取った、公爵による卑劣極まりない罠だったのである。
全ての努力は、巨大な権力の前に無慈悲に踏み潰され、マテオに火刑という、最も残忍な死刑判決が下される。
その報せを耳にしたイサベラの絶望は、観察者である里奈の精神をも深く侵食した。夢から覚めるたび、里奈はイサベラの悲しみで自分の枕が濡れていることに気づいた。しかし、不思議なことに、その深い悲しみの体験は、里奈の精神を蝕むどころか、逆に浄化していくような感覚があった。夢の中でイサベラとして涙を流し尽くすことが、現実の里奈が抱えるストレスや不安を洗い流してくれる、一種のカタルシスとして作用しているかのようだった。
睡眠の質は、劇的に改善され続けた。毎晩、深く質の良い眠りを得られるようになった里奈は、日中の集中力も格段に向上し、研究の効率も飛躍的に上がった。山城教授も、急に活気を取り戻した里奈の変貌に目を見張ったが、里奈はその理由を明かすことができなかった。
夢の中の物語は、クライマックスへと向かっていた。処刑を数日後に控えた日、イサベラは公爵の「慈悲」によって、牢獄にいるマテオとの最後の面会を許された。
薄暗く、湿った地下牢。鉄格子の向こうで、マテオは拷問によってひどく痩せこけていたが、その黒曜石のような瞳の光だけは、少しも失われていなかった。
「イサベラ、来てくれたのか。君の顔を見たら、死ぬのも怖くなくなった」彼は、力なく笑った。
「そんなこと言わないで、マテオ!私が、私が必ず助けるから!」
「もういいんだ、イサベラ」彼は、静かに首を振った。「俺の命は、もう神の御許にある。だが、俺の魂は、違う。俺の魂は、あのピアスと共にある。だから、君がそれを着けてくれる限り、俺はいつだって君のそばにいられるんだ」
「いや……いやよ、マテオ!あなたなしでなんて、生きていけない!」イサベラの慟哭が、冷たい石壁に響いた。
「生きるんだ、イサベラ。俺の分まで、美しく、強く、生きるんだ。そして、いつか、本当に君を幸せにしてくれる、心優しい人に出会うんだ。俺の作ったピアスは、その時まで君を守るお守りだ。俺の魂が、君をあらゆる災いから守ってやる」
彼は、看守の目を盗み、懐から取り出した小さな布包みを、鉄格子越しにイサベラの手に押し付けた。震える手でそれを開くと、中から現れたのは、完璧に完成された一対の銀のピアスだった。牢獄の中で、一体どうやって。おそらく、彼の人柄を慕う誰かが、彼の最後の願いを叶えるために、工房から道具と作りかけのピアスを運び込み、完成させたのだろう。
「約束してくれ、イサベラ。幸せになると。君の幸せだけが、俺の唯一の望みだ」
それが、マテオがイサベラに遺した、最後の言葉だった。
翌日、セビリアの大聖堂前の広場で、彼は炎の中にその身を投じられた。イサベラは、そのおぞましい光景を、自室の窓から、ただ、魂が抜け殻になったように見つめていることしかできなかった。
そして、その夜。アルバレス公爵との結婚式を目前に控えたイサベラは、城のバルコニーに一人、佇んでいた。その手には、マテオの形見である、完成された銀のピアスが固く握られている。これを耳にすれば、マテオの言葉通り、彼の魂と共にいられるのかもしれない。しかし、それは同時に、彼の「幸せになってくれ」という最後の願いを、永遠に裏切り続けることになるのではないか。マテオを陥れた公爵の妻となり、彼の城で、彼の魂を宿したピアスを身に着けて生きる。それは、あまりにも残酷な裏切りではないか。
長い、長い苦悩の末、彼女は一つの決断を下した。
ピアスを身に着けることは、選ばなかった。マテオの純粋な魂を宿したこの神聖なものを、憎い公爵のものとなる自分の身体で汚すことは、断じてできない。かといって、彼の魂そのものであるこれを、捨てることもできない。
イサベラは、ピアスの片方を、別れの口づけをするように固く唇に押し当てると、夜の闇に向かって、力いっぱい投げ捨てた。それは、マテオの魂の半分を、この不浄な世界から自由な天国へと解き放つための、彼女なりの、悲痛な儀式だったのかもしれない。
そして、残されたもう片方のピアスは、マテオへの永遠の愛と、決して果たされることのなかった約束の証として、彼女が嫁入り道具として持ってきた小さな宝石箱の、一番奥深くに、固く、固く封印された。
――そこで、夢は終わった。それ以来、里奈がピアスを着けて眠っても、もうあの夢を見ることはなかった。物語は、完結したのだ。
この一連の体験を、どう科学的に説明すればいいのか。里奈は、自らの博士論文のテーマを、この体験と正面から結びつけることを決意した。それは、主流の科学界から見れば、あまりにも突飛で、オカルト的だと一蹴されかねない危険な賭けだった。しかし、彼女には、自分の身に起きた事実を、科学の言葉で記述する責務があると感じていた。
彼女は、論文の新しいタイトルを打ち込んだ。
『心的外傷後ストレス障害(PTSD)における記憶の再統合と、レム睡眠中の夢が持つ治癒的効果についての考察 ― 量子もつれ理論を応用した、物体を介する感情記憶の転移仮説とその臨床的意義 ―』
山城教授にこのテーマを提出した時、彼は案の定、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「齊藤君、君は疲れているんじゃないのか?量子もつれ?物体への記憶転移?それは科学というより、SFかファンタジーの領域だ。こんなものを学会に提出したら、我々の研究室の信用問題に関わる」
しかし、里奈は怯まなかった。彼女は、自身の睡眠データ、心理状態の変化を示す各種指標、そして何より、この数週間で書き溜めた詳細な夢の記録(もちろん、個人が特定されないよう匿名化し、あくまで「ある被験者の症例」として)を教授の前に差し出した。
「教授。これは、ファンタジーではありません。私の身に、そして被験者の身に起きた、紛れもない事実です。人間の記憶は、単に脳内のシナプス結合に保存される情報データではないのかもしれません。強い感情、特にトラウマティックな出来事や深い愛情は、一種のエネルギーパターンとして、その当事者が強く執着した物体に『転写』されるという仮説は、検討に値するのではないでしょうか」
里奈は、熱を込めて続けた。
「量子力学における『量子もつれ』の状態にある二つの粒子は、どれだけ空間的に引き離されても、片方の状態がもう片方に瞬時に影響を与えます。人間の強い意識と、その意識が向けられた特定の物体との間にも、我々がまだ知らない、類似の相関関係が生まれる可能性は否定できません。この『感情記憶』が転写された物体を、感受性の高い人間が身に着けた場合、特に脳が無防備な状態となるレム睡眠中に、その記憶が夢という形で再生される……。そして、最も重要なのは、この記憶の追体験が、被験者自身の精神的ストレスを軽減し、睡眠障害を治癒させたという事実です。これは、夢の中で代理的にトラウマを体験し、感情を解放(カタルシス)することが、現実のストレスを軽減する、積極的な自己治癒プロセスであることを示唆しています。これは、PTSDの新しい治療法に繋がる、画期的な発見になる可能性があります」
里奈の気迫と、提示された詳細なデータに、山城教授は押し黙った。彼は根っからの科学者であり、説明のつかない現象を頭ごなしに否定するような、偏屈な人間ではなかった。
「……わかった。齊藤君。君の仮説は、あまりにも大胆すぎる。だが、科学の進歩とは、時に常識を疑うことから始まるのも事実だ。君の研究者としての将来を賭ける覚悟があるというのなら、私も指導教官として、最後まで付き合おう。ただし、客観的なデータを、さらに積み上げること。それが条件だ」
大きな壁を、一つ乗り越えた。しかし、里奈の中には、まだ解けない大きな謎が残っていた。イサベラの物語は、あの夢で終わった。では、なぜ、自分の手元にあるピアスは、未使用のまま、完璧な「一対」として存在するのだろうか。
この謎を解く鍵は、やはりあの店にあるに違いない。里奈は、圭介という、もう一人の理解者を訪ねるため、再び南船場の「ブランドクラブ」へと向かった。
第三章:繋がる想い、令和の誓い
「いらっしゃいませ。……やはり、いらっしゃいましたね」
店に入ると、圭介はカウンターで銀製品を磨く手を止め、まるで里奈が来ることを予期していたかのように、穏やかに微笑んだ。
「その後、ピアスの声は、あなたに何を語りかけましたか?」
彼の言葉は、もはや里奈を驚かせなかった。彼は、最初から全てを知っていた、あるいは感じ取っていたのかもしれない。里奈は、近くのカフェに場所を移すと、これまでの夢の物語の全てを、圭介に打ち明けた。17世紀のセビリア、イサベラとマテオの悲恋、公爵の陰謀、そして、片方だけが闇に投げ捨てられ、もう片方が宝石箱に封印されたという、ピアスの悲しい結末を。
普通に考えれば、精神的に疲弊した女性研究者が見た、精巧な妄想だと一蹴されてもおかしくない話だ。しかし、圭介は、一度も疑いの表情を見せることなく、まるで遠い昔の大切な物語を聞くように、真剣な眼差しで、黙って里奈の話に耳を傾けていた。
全てを話し終えた後、彼はふう、と一つ長い息をつくと、静かに口を開いた。
「……そうでしたか。やはり、このピアスには、それほどまでに深く、哀しい物語が刻まれていたのですね。僕がこのピアスを初めて手に取った時、感じたんです。二つで一つなのに、まるで長い間、別々の場所で孤独に耐えてきたような、そんな寂しさを。そして、ようやく再会できたことを、静かに喜び合っているような、不思議な気配を」
圭介は、アンティークの世界では、品物が持ち主を選ぶという話が時々あるのだと、改めて教えてくれた。特に、作り手や持ち主の想いが強く込められたもの、悲劇的な別れを経験したものには、時を超えて再び巡り会おうとする、不思議な引力が働くことがあるのだ、と。
「あなたの話、信じます」圭介は、真っ直ぐに里奈の目を見て言った。「そして、あなたの疑問……なぜピアスが未使用で一対のまま存在するのか、という謎も、一緒に考えさせてください。これはもう、単なる商品の来歴調査ではありません。イサベラとマテオの、400年にわたる物語の、最後のページを我々が紡ぐ仕事です」
圭介のその言葉は、孤独な研究と不思議な体験の中で、誰にも理解されないのではないかと怯えていた里奈の心に、温かい光を灯した。初めて、自分の体験を完全に共有し、肯定し、そして共に歩もうとしてくれる人が現れたのだ。
「ありがとう……藤堂さん……」
里奈の目に、知らず知らずのうちに涙が浮かんでいた。それは、イサベラの悲しみの涙ではなかった。深い安堵と、そして、圭介という唯一無二の理解者を得た喜びの涙だった。
二人の、時を超えた謎解きの共同作業が、静かに始まった。
圭介は、自身の持つアンティークジュエリーの知識と国内外のネットワークを駆使し、スペインの17世紀の銀細工、特にセビリアのギルドの記録について調べ始めた。一方、里奈は、夢で見た街並みやデ・ラ・クルス家、アルバレス公爵家の紋章の断片を正確にスケッチし、歴史的な背景、特に当時の貴族社会と異端審問の実態について、学術的なアプローチから調査を進めた。
調査は困難を極めた。400年前の、しかも歴史の表舞台にはほとんど登場しない一銀細工師の痕跡など、見つかるはずもないと、何度も心が折れそうになった。しかし、この共同作業は、二人の距離を急速に、そして確実に縮めていった。
研究室に籠もりきりだった里奈にとって、圭介と過ごす時間は、新鮮な発見と、人間的な温かさに満ちていた。彼の、ジュエリーの一つ一つに込められた物語を愛おしむ心、膨大な知識、そして何よりも、時折突拍子もない仮説を口にする里奈の話を、面白がり、真摯に受け止めてくれる優しさに、里奈は次第に、研究者としての興味を超えた、個人的な好意を抱いている自分に気づいた。
圭介もまた、聡明で、少し不器用だが、一度決めたことは決して諦めない一途さで真実を追い求める里奈の姿に、強く惹かれていた。彼女が語る夢の話は、彼がずっと信じてきた「モノが持つ物語」の世界を、科学の光で照らし出してくれるようで、知的好奇心と、彼女自身への興味を掻い立てられた。
ある日の夜、大学の図書館で古びたスペインの古文書を二人で解読していた時のことだった。圭介が、ある記述を指差して、興奮した声で言った。
「里奈さん、見てください!これ、もしかしたら……!」
それは、17世紀半ばのセビリアの、ある修道院の古い記録だった。そこには、若くして修道院に入った、イサベラ・デ・ラ・クルスという名の貴族の娘に関する、ごく短い記述があった。彼女は、婚約を破棄し、その生涯を神に捧げた、と。そして、彼女が亡くなった後、彼女の質素な私物の中から、一つの小さな宝石箱が見つかった。その中には、片方だけの、見事な槌目細工の銀のピアスが、大切に保管されていた、と記されていた。
「イサベラ……!」
里奈は息を飲んだ。夢の中の物語と、歴史の記録が、初めて明確に繋がった瞬間だった。
「そして、こっちも見てください」圭介は、別の文献のページを開いた。「同じ時期、セビリアの街で、ある奇妙な噂が流れていたそうです。夜、グアダルキビル川のほとりを歩いていると、どこからか銀の輝きが見え、それを手に取ろうとすると消えてしまう、と。人々はそれを、無実の罪で火刑に処された銀細工師、マテオ・エルナンデスの魂の輝きだと噂した、とあります」
マテオ・エルナンデス。夢の中の彼の名と、完全に一致した。
実在したのだ。イサベラとマテオは、確かにこの地上に存在し、愛し合い、そして悲劇的な最期を迎えたのだ。里奈の夢は、妄想などではなかった。
「すごい……圭介さん、すごいわ!見つけてくれたのね!」
里奈は、興奮のあまり、思わず圭介の手を強く握りしめていた。彼は、少し照れながらも、その手を優しく、力強く握り返した。
しかし、これで謎が全て解けたわけではない。むしろ、最大の謎が残っている。修道院で見つかったのは「片方だけ」のピアス。川のほとりで噂になったのも、おそらくイサベラが投げ捨てたもう片方のピアスの幻。では、なぜ、里奈の手元にあるピアスは、完璧な「一対」なのだろうか。
二人は、様々な可能性について、夜が更けるのも忘れて語り合った。
仮説1:イサベラが投げ捨てた片方と、宝石箱に仕舞われたもう片方が、何世紀もの時を経て、別々のルートを辿り、奇跡的にどこかのコレクターの元で再会し、一対となった。
仮説2:マテオの才能を惜しんだ彼の弟子か仲間が、処刑後に彼の工房に遺された設計図か、あるいは記憶を頼りに、全く同じものをもう一対、追悼の意味を込めて作り上げた。それが、未使用のまま、現代まで伝わった。
どちらの仮説も、ロマンはあるが、確証はない。真実は、もはや歴史の闇の中だ。
しかし、その時、里奈の頭に、全く新しい、第三の仮説が、雷のように閃いた。
「……ねえ、圭介さん。もし、こうだったら、どう思う?」
里奈は、自分の耳で輝くピアスにそっと触れながら言った。
「このピアスは、イサベラとマテオの、あまりにも強い想いが時空を超えて、現代のアーティストであるチュロ・サストレにインスピレーションとして『届いた』結果、生まれたものだとしたら……?サストレ自身は無意識かもしれないけれど、彼女は400年前の職人の魂の叫びを、現代の技術と感性で『受信』して、この世に再現した。だから、これは単なる銀ではなく、時を超えた想いの結晶。だからこそ、『New』でありながら、古代の遺物のような気配を纏っている……」
それは、科学者らしからぬ、あまりにも詩的な仮説だった。しかし、圭介は、その突飛な話を、馬鹿にするどころか、うっとりとした表情で聞いていた。
「……素晴らしい。それこそが、真実なのだと、僕は思います。だから、このピアスはあなたを選んだんですよ、里奈さん。400年間、誰の耳も飾ることなく、ただひたすらに待ち続けていたんです。マテオが込めた、『愛する人に幸せになってほしい』という、たった一つの願いを、代わりに叶えてくれる、あなたのような人を」
圭介の言葉が、里奈の心の最後の扉を開いた。
そうだ。このピアスは、マテオが、イサベラに幸せになってほしくて作ったものだ。けれど、イサベラは、これを着けて幸せになることができなかった。マテオのいない世界で、自分だけが幸せになることを、自分自身に許すことができなかったのだ。だから、彼女の悲しい物語は、未完のまま、400年も彷徨い続けた。
そして今、その物語の続きを紡ぐ役目が、自分に巡ってきた。
里奈は、自分が何をすべきかを、はっきりと悟った。
「私が、幸せになる」
里奈は、図書館の静寂の中、圭介の目をまっすぐに見つめて、はっきりと言った。
「私が、このピアスを着けて、幸せになる。それが、イサベラとマテオの魂を、長い哀しみの連鎖から解放してあげる、唯一の方法だと思うの。そして……そのためには、圭介さん、あなたの力が必要なの。私……あなたのことが、好きです」
それは、飾り気のない、あまりにも真っ直ぐな、里奈らしい告白だった。
圭介は、一瞬、驚きに目を見開いたが、次の瞬間には、これ以上ないほど優しい笑顔になり、里奈の震える手を、両手でそっと包み込んだ。
「僕もです、里奈さん。僕も、あなたのことが好きです。初めて店で会った時から、ずっと。あなたが、このピアスの物語を、完成させてくれる人だと、信じていました」
古い書物の匂いが満ちる図書館の片隅で、400年の時を超えた二つの魂が見守る中、令和の大阪で、新しい愛の物語が、静かに、しかし確かに、その第一歩を踏み出したのだった。
終章:令和に紡ぐ物語
一年後。なにわ大学の大講義室は、満場の拍手に包まれていた。
壇上には、博士のガウンを身にまとった里奈が、晴れやかな、しかし少し涙ぐんだ表情で立っている。彼女が発表した博士論文、『心的外傷後ストレス障害(PTSD)における記憶の再統合と、レム睡眠中の夢が持つ治癒的効果についての考察 ― 量子もつれ理論を応用した、物体を介する感情記憶の転移仮説とその臨床的意義 ―』は、その独創性と、科学的実証に基づいた大胆な仮説が学界に大きな衝撃と議論を巻き起こし、この日、最優秀論文賞を受賞したのだ。
発表の最後、彼女は聴衆に向かってこう締めくくった。
「……最後に、この場を借りて、私の研究のきっかけとなった、あるアンティークのピアスに、心からの感謝を捧げます。そのピアスが宿していた、400年前の哀しい愛の物語は、持ち主の睡眠障害を治癒させただけでなく、私たちに教えてくれました。人の想いは、時を超えることができるのだと。そして、科学とは、まだ解き明かされていない神秘の扉を開けるための、最も誠実な鍵であるべきだ、ということを」
客席の一角で、圭介が、誰よりも温かい眼差しで彼女を見つめ、力強く拍手を送っていた。
その日の夜、二人は、お祝いのために、南船場の、思い出の場所の前に立っていた。「ブランドクラブ」。あの日、全てが始まった場所だ。
「なんだか、夢みたい。一年前は、眠れない夜に怯えながら、一人でこの店のドアを押したのに。今、こうして圭介さんと、博士になったお祝いに来るなんて」
里奈が感慨深げに微笑むと、隣に立つ圭介が、その手をぎゅっと握った。
「夢じゃありませんよ。里奈さんが、ご自身の力で掴み取った現実です。イサベラとマテオの魂も、きっと、天国で祝福してくれています」
二人は、恋人として、そして人生の最高のパートナーとして、穏やかで、満ち足りた日々を過ごしていた。里奈が不眠に悩まされることは、もう二度となかった。ピアスを着けて眠る夜に見る夢は、もうイサベラの悲しい記憶ではない。圭介と共に過ごす、温かくて、少し可笑しい、未来の夢に変わっていた。
店に入ると、オーナーが満面の笑みで二人を迎えてくれた。
「齊藤先生、この度は誠におめでとうございます!圭介から全て聞いておりますよ。いやはや、うちの商品が、歴史的な論文の誕生に一役買ったとは、店主冥利に尽きますなあ」
里奈は、少し照れながらお礼を言った。彼女の耳には、あの日と同じ、Chelo Sastreの銀のピアスが、優雅な曲線を描いて輝いている。しかし、その輝きは、一年前とは明らかに違って見えた。
以前のピアスが、静かな哀しみを湛えた、どこか近寄りがたい月の光だとすれば、今のピアスは、持ち主の幸福感を映して、希望に満ちた朝の光のように、きらきらと、温かく輝いている。持ち主の幸せな心が、400年の時を経て、ようやく銀の魂に新しい光を与えたのだ。
里奈は、ガラスケースの中を覗き込んだ。そこに並ぶ美しいジュエリーたちは、あの日と同じように、静かに次の主を待っている。この一つ一つにも、まだ誰も知らない、哀しくも、美しい物語が眠っているのかもしれない。
「ねえ、圭介さん」
「はい、里奈さん」
「ありがとう。私を見つけてくれて。このピアスと、私を」
「いいえ」圭介は、優しく首を振った。「僕の方こそ、ありがとう。あなたと出会って、僕の世界は、何倍も、何百倍も豊かになりました。僕にとって、里奈さんこそが、人生という時間の中で出会った、最高の宝物です」
圭介の言葉に、里奈の胸は、温かい幸福感で満たされた。
セビリアで悲劇に終わったイサベラとマテオの恋は、400年という想像もできないほどの長い時を経て、令和の大阪で、里奈と圭介という二人の出会いによって、新しい愛の物語として、ようやく成就したのだ。マテオが槌目の一つ一つに込めた「愛する人の幸せを願う心」は、決して消えることなく、時空を超え、場所を超え、今、確かにここに受け継がれた。
二人は店を出て、夕暮れの南船場を、ゆっくりと歩き始めた。御堂筋の街路樹に灯されたイルミネーションが、まるで二人の輝かしい未来を祝福するように、シャンパンの泡のようにはじけてきらめいている。
里奈の耳元で、銀のフープピアスが、楽しげに揺れていた。その重さ14.0gは、もはや哀しみの記憶の重さではない。二人の愛と、これから二人で築いていく未来の、かけがえのない、幸せな重さだった。
これは、一対の銀のピアスが紡いだ、時を超えた愛の物語。
そして、眠れない孤独な夜を過ごすすべての人に贈る、ささやかな希望の物語である。あなたのそばにある、何気ない品物もまた、まだ誰も知らない、あなたを待っている美しい物語を、その内に秘めているのかもしれないのだから。